🗓 2024年04月27日
吉海 直人
もともと歌枕の多くはイメージの世界の産物なので、必ずしも現実に存在しているものではないことが少なくありません。その代表例の一つが、『伊勢物語』第九段に描かれている三河の国の「八橋」です。そもそも『伊勢物語』自体が虚構の文学作品です。ですから、昔男のモデルとされている在原業平が東下りをしたという史実(証拠資料)はありません。そうなると三河の国を通ったことも、「八橋」の存在もそして杜若までも虚構の可能性が高いといえます。
ですが『伊勢物語』の人気と、そこに旅の途中の見所が描かれていることから、後世の人々は昔男が通った道を追体験したくなったようです。そのことはいくつかの文献(作品)に書き留められています。ところが『伊勢物語』を慕った人々の感想はというと、「八橋」や杜若がどこにも見当たらないという苦情に近いものばかりでした。
本来、歌枕はその場所が特定されていれば、それだけでよかったはずです。だから京都にいながらにして「八橋」を想像して楽しむこともできました。『狭衣物語』には、「行かぬ三河の八橋はいかがはあらんずる」と引用されているし、『平家物語』にも、「彼在原のなにがしの、唐衣着つつなれにしとながめけん、三河八橋にもなりぬれば、蛛手に物をと哀れなり」と『伊勢物語』世界が再現されています。
ですからたとえ現実に「八橋」がなくても、杜若が咲いていなくても、現地(愛知県知立市)で『伊勢物語』世界を創造することで、物語世界を堪能することができるからです。ところが「八橋」の場合はあまりにも具体的なだけに、どうしても現実的な風景を求めてしまうのでしょう。
考えてみると、ちゃちな橋が長い間架かっていることなど望むべくもありません。むしろない方が現実的です。石碑などにここがかつて「八橋」が架かっていたところとでもあれば、それで充分でした。それにもかかわらず、例えば『更級日記』には、「八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし」と「八橋」の不在であっさりと切り捨てられいます。ここからいえるのは、菅原孝標娘は『伊勢物語』のファンであり、追体験を期待していたということです。また『とはずがたり』にも、「八橋といふ所に着きたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ友もなき心地して」とあります。「水行く川」というのは、明らかに第九段を踏まえた発言ですね。
同様のことは『俊頼髄脳』・『東関紀行』などにも見られます。三河の国を訪れた人の中で、「八橋」を見た人はいなかったのです。これは場所が違っているというより、既に橋はとっくに朽ち果てているのでしょう。もっといえば、もともと「八橋」など存在していなかったかもしれないのです。
ただ『海道記』には、「水に立てる杜若は、時を迎へて開きたり。花は昔の花、色もかはらずさきぬらん。橋も同じ橋なれば、いくたび造りかへつらむ」とあって、橋と杜若の存在が記されていました。「八橋」については「一両の橋を名づけて八橋と云ふ」とあります。それは『春の深山路』も同様で、「蜘蛛手とは昔はいかにかありけむ、今はただ二つの橋なり。〈中略〉杜若も今はなし」と述べています。なお「杜若も今はなし」というのは、訪れたのが十一月なので、時季外れで咲いていないということのようです。
現地を訪れた連歌師・里村紹巴や茶人・小堀遠州にしても、「八橋」などどこにもなかったと証言しています。これにしても場所が違うというより、虚構の世界だと考えるべきではないでしょうか。ところが歌枕というものに、商品価値が付加されてきました。謡曲『杜若』が東下りをモチーフにして流布したことと相まって、江戸と京都の往来が盛んになると、必然的に旅の見所としての歌枕・名所が浮上してきたのです。
そうなると、不在のままだと観光客を誘致できないので、地元の人々によって杜若が再現・整備されることになります。特に旅行・観光ブームが起きる江戸時代以降、『伊勢物語』ゆかりの「八橋」と杜若が、セットで観光名所化された可能性が高いようです。紹巴の『富士見道記』には八橋の古跡に杜若を植えても、旅人が記念に引き抜いてしまうので育たないということが書かれています。この時期既に人為的な名所が作り出されていることが察せられます。
そこで新たに選ばれたのが、三河の国の古刹・無量寿寺でした。「八橋」の古跡からはやや離れているものの、ここに業平ゆかりの杜若池庭園が造られたのです。そしてこの庭園が、「八橋」古跡に代わる名所として観光名所化されていきました。もともと業平とのかかわりは認められませんが、ついでに名所にふさわしい説話も醸成されています。
そのためか、『伊勢物語』では八つの川に架けられた板橋という意味で「八橋」と称されていたものが、いつしか八枚の板を組み合わせて一つの橋にした「八橋」へと変化しています。有名な尾形光琳の「燕子花図屏風」や「八ッ橋図屏風」・「八橋蒔絵螺鈿硯箱」などは、まさに八枚板の橋として描かれています。そういった誤読を含めて、ますます「八橋」の歌枕化が促進されていったのです。