🗓 2019年09月10日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

八重の人生を考える時、八重が三つの姓を有していることに注目してみたらどうだろうか。山本・川崎は会津寄りの姓で、新島は京都寄りの姓である。その中では、短いながらも川崎八重が最もインパクトが強いと思われる。というのも、鶴ヶ城籠城という八重の武勇伝がそこに含まれているからだ。

この時八重は独身としての山本八重ではなく、川崎尚之助と結婚した川崎八重として戦っていた。ただし当時の社会情勢として、川崎八重という独立した女性としての活躍は認められず、「川崎尚之助の妻」という間接的な存在としてクローズアップされている。

近時、その川崎尚之助に関する資料が次々と発掘・報告されており、これまで不明だった籠城後の消息もわかってきた。この尚之助の数奇な生涯は、八重抜きでも十分興味深いので、今後尚之助研究として行われても良さそうである。

さて、そんなに重要な川崎八重時代であるのもかかわらず、武勇伝以外はほとんど知られていない。その理由の一つは、八重自身が尚之助との結婚生活を一切語っていないからであろう。むしろ八重は懐古談の中で、

私は、弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だといふ心持で、その形見の装束を着て、一は主君のため一は弟の為、命のかぎり戦ふ決心で、城に入りました。

と語っている。八重は弟の敵討ちのために男装し、自ら三郎(山本三郎)と名乗って男として戦ったというのだ。これはこれで筋が通っているが、そうなると夫であり共に戦った川崎尚之助のことが、八重の懐古談では完全に抹殺されていることになる。八重は何故尚之助のことを語らなかったのだろうか。これが八重最大の謎である。

あるいは尚之助が会津藩士ではないという誤謬が広がったことと相俟って、川崎八重としての人生を消去したかったのかもしれない。ただし古い記録には、塩川村への疎開にしても、内藤新一郎方への移住にしても、資料には川崎尚之助の妻と記されているのだから、それを無かったことにするのは歴史改竄にも等しい。

もちろん山本八重にしても、個人名として表記されることは皆無に近かった。普通は山本権八の娘八重とされているからである。扶養されている幼少時はそれが普通だった。川崎尚之助と結婚することで、ようやく世帯主(戸主)が変更される(女三界に家なし)。その二人がいつ離別したのか不明だが、少なくとも明治4年の段階では、依然として川崎尚之助の妻と表記されていた。

その後京都に出ることで、戸主は兄の覚馬に移るはずだから、それによって山本覚馬の妹と表記されることになる。その際、一度山本家に復籍しているとすれば、それによって離婚の事実が確定する。その後、新島襄と結婚(再婚)することで、新島襄の妻あるいは新島襄夫人とされる。襄が亡くなった後はずっと新島未亡人である。

こうしてみると、山本八重・川崎八重・新島八重といった単独の人名表記はほとんど機能していないことがわかる。襄と対等の夫婦生活を送ったはずなのに、世間的には男性優位の間接的な人名表記がずっとまかり通っていたわけだ。昭和6年に大龍寺に建立された「山本家之墓所」にも、「山本権八女京都住新島八重子」と刻まれている。

事務局より

☆新島八重顕彰会の事業の一環として、八重について知ることを目的にしたコラムの連載を続けていく予定です。どうぞお付き合いください。