🗓 2019年09月17日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

中学唱歌として有名な「荒城の月」は、明治31年に土井晩翠が作詞し、それに滝廉太郎が曲を付けたものである(後に山田耕筰が編曲)。九州育ちの私は、作曲家滝廉太郎つながりで、大分県竹田にある岡城がそのモデルとなっていると教えられた。ところが作詞家土井晩翠の方では、仙台の青葉城あるいは会津若松の鶴ヶ城がモデルになっているとされている。そのため「荒城の月」の記念碑は、岡城址・青葉城址・鶴ヶ城址の3ヶ所に建立されている。どれもそれなりに根拠があるので、本家争いに決着は付きそうもない。

それ以外にも「荒城の月」の歌碑は、岩手県・東京都・長野県・富山県・兵庫県などに建てられている。そのうち岩手県二戸市九戸城址のものは、たまたま林檎狩りに訪れた晩翠が、自ら「荒城の月」の歌詞を書き残したことによるそうだ。また富山県富山市の富山城址は、滝廉太郎が小学校時代3年間通った縁によるそうだ。同様に東京都千代田区の歌碑は、滝廉太郎居住地跡に建てられている。作詞家・作曲家とのつながりで歌碑の数が増加していることが察せられる。

さて肝心の鶴ヶ城の経緯はどうだろうか。昭和21年に晩翠が県立会津高等女学校(現葵高等学校)で講演した折、多少のリップサービスもあったかもしれないが、「荒城の月」は鶴ヶ城のことを思い浮かべて作詞した旨を話した。それを聞いた地元の人々は大いに驚き、早速記念碑建立委員会を設立し、翌年の6月5日には晩翠夫妻を招いて、盛大に除幕式が行われたとのことである。なお現在の鶴ヶ城(天守閣)は、遅れて昭和40年に再建されたものである。

ということで「荒城の月」の歌詞には、白虎隊の自刃をはじめとして、義に殉じた会津藩士の悲劇とその鎮魂が籠められていることになる。ここまでくるといよいよ八重の出番である。これまでの説明で「荒城の月」の「荒城」は十分納得できたが、「月」については何も説明されていない。その「月」こそが、八重の歌に見事に詠み込まれているのである。

参考までに上笙一郎編『日本童謡辞典』(東京堂出版)で「荒城の月」項目を見ると、

落城二日前の九月二二日、冴え渡る月光の中、のちに同志社大学総長=新島襄夫人となる山本八重子が「明日よりはいづくの誰か眺むらん 馴れし大城おおきに残る月影」と鶴ケ城の壁に朱箭で一首の歌を書き残したという逸話が、晩翠の心に深い感銘となって刻み込まれ、「荒城の月」のモチーフを形成したと言われている。  (加藤理執筆)

 
と八重の名前が挙げられていた。これがどんな文献を根拠にして書かれたのかわからないものの、「明日の夜は」ではなく「明日よりは」とあるので、東海散士の『佳人之奇遇』を参考にしていると思われる。ただしそこに八重の名前は出ていないので、八重の作であることはまた別の文献(会津会会報など)によっていることになる。

いずれにしても、八重の詠んだ「月」が「荒城の月」のモチーフとなっている可能性は高い。近々鶴ヶ城の記念碑の前で、みなさんと一緒に「荒城の月」を歌ってみたい。これも立派な八重顕彰になると思う。