🗓 2019年09月29日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

大河ドラマ「八重の桜」では、八重のドレス姿が目立っていた。それは八重がアメリカの生活を身につけた新島襄と結婚したことによる。時代の先取りをする八重だから、他に先がけてドレスを着用していたとしても不思議はあるまい。
それもあって、ドラマでは襄との結婚式でも八重(綾瀬はるか)に純白のウェディングドレスを着用させていた。その入手経路も、母佐久が新英学校のエバンス夫人から譲ってもらったと明かされていた。しかしながら襄との結婚式において、八重がウェディングドレスを着用したという確かな証拠は見当たらない。それどころか、ドレスを着ていたという資料の信憑性さえも微妙なのである。

 出発点は「新島先生の洋式結婚式」という見出しで書かれた本間重慶氏の、
 此時、新島夫人は靴を履かれて居たが、日本婦人が京都に於て洋装されたのは、又実に是が最初で、此席に連なった人々は誰も不思議さうに見て居られた。

(『創設期の同志社』182頁)

という回想記事である。ここに「洋装」とある。おそらくこれを根拠にして本井康博氏は、

 八重は洋装(ドレス)でした。これもお手製に違いありません。そんなものを貸したり、売ったりする店なんて、京都では、どこにもありません。

(『ハンサムに生きる』16頁)

と述べているのだろう。「お手製」かどうかはさておき、「洋装」の具体例として、本間氏は「靴」を履いていたことしかあげていない。それを「ドレス」としていいのだろうか。
私は、もし八重がドレス姿であったら、本間氏は靴のことよりもドレスのことを一番に書き留めるのではないかと考えている。要するに結婚式における八重のドレス姿は確定ではなく、一つの有力な説ということにしかならないのだ。

そもそも八重の基本的な日常着は着物であった。それは八重の結婚直後の写真を見れば一目瞭然である。ドレス姿の写真は1枚もなく、すべて着物姿で写っている。有名な徳富蘇峰の悪口を思い出してもらいたい。蘇峰は八重を称して「鵺のごとき女」と言っているが、その時も八重はドレスではなかった。本体が着物(これが重要)で、頭に帽子・足に革靴という和洋折衷だからこそ「鵺」なのだ。仮にドレスの上に帽子・革靴であれば、それは単なる洋装だから「鵺」の喩えにはなるまい。結婚式にしても、着物だったと思っている。ただし早川喜代次著『徳富蘇峰』には、

 昔は洋服にボンネットの馬上姿甲斐甲斐しいこともあって、学校の演説会の檀上より、公然と猪一郎に攻撃されたこともある。 

(476頁)

と記されている。八重の記憶としてはドレス姿の方が印象的だったのだろう。

それから10年後の明治20年の夏、八重は襄と一緒に北海道で保養している。その際、会津藩の幼馴染み日向ユキと出会い、一緒に札幌の写真館で記念写真を撮影している。それを見ると、2人とも着物姿で写っていた。時を同じくして、八重は大島正健の長男正満(みつ坊)とも記念写真を撮っている。その写真の八重もやはり着物だった。八重はドラマのような洋装で北海道を旅行していたのではなかったのだ。

なおドレス姿の写真は、八重が40才を過ぎてからのもがほとんどである。そこで考えてみた。ドレス姿の写真が残っているからといって、日常もドレスを着用していたと言えるだろうか。どうやら八重のドレス姿は、誕生日の記念などにわざわざ写真館で撮ったもののようだ。しかも一度に何枚かの違ったポーズで撮影しているらしく、だからこそドレス姿の写真が多くなっているのだ。
これはいわゆる成人式の晴れ着のようなものであろう。写真を撮影するために、特別にドレスを着用しているとすれば、単純に残っている写真から普段もドレスだったと決め付けることはできない。襄の臨終場面を描いた久保田米僊の絵でも、八重は和服姿に描かれている。そして襄の死後、八重はドレスを着用していない。ドレスは、写真からの幻想だったのだ。