🗓 2019年10月08日
吉海 直人
私が八重に興味をもった理由の一つは、八重が百人一首かるたの名手だとわかったからである。しかも詳しく調べていくうちに、なんだか普通のかるた取りとは違っていることに気付いた。例えば八重の遊んでいたかるたは、一般的な紙札ではなく、板製であったことがあげられる。もちろん古くから板かるたは存在していたが、それで遊んだという古い記録は見当たらない。
もう一つ、八重が詠みあげた歌を見ると、上の句ではなく下の句だったことである。普通のかるた取りでは、読み手が上の句を読んで、取り手が下の句札を取る。ところが八重は上の句を読まず、いきなり下の句から詠んでいたのだ。
この二つの情報から、八重の遊んだかるたの正体がわかるだろうか。これまで多くの人はわからなかったようである。幸い私は、百人一首の研究を専門にしていたので、すぐにピンときた。あ、これは下の句かるた取りだと。残念なことに現在の会津若松では、既に板かるたの記憶が消失しており、若い人は見たことも遊んだこともないようだ。
幸運なことに、北海道にそれが伝わっていた。従来は、会津藩で誕生した板かるたが、戊辰戦争以降に斗南藩(現在の青森県と岩手県の一部)経由で北海道に伝わったと言われてきた。しかしながら古く会津藩で遊ばれていたという記録(証拠)が報告されておらず、一種の伝承として片付けられていた。それが奇しくも八重研究の副産物として、会津の板かるたが浮上してきたのである。
まず「会津会会報」32号(1928年7月)の「京都会津会第2回例会兼新年互礼会」に、
と出ていた。ここに「板歌留多」と明記されている。続いて1年後の「会津会雑誌」34号(1929年7月)の「新年互礼会」にも
と記されていた。ここでは「歌かるた」となっているが、ちゃんと「会津独特の下の句を読んで下の句をとる」という競技法が明記されているではないか。同様のことは「会津会雑誌」36号(1930年7月)の「新年例会」にも、
とあったた。ここにも「お国ぶりを発揮して、下の句を読んで下の句を取る競技」と説明されている。この日のかるた取りには、84歳の八重も参加したようだが、さすがに老齢には勝てず、往年の強さはなかった。この日は新城氏(昭和4年京大総長)一人が目立っていた。
見つけたのはこの三点だけだが、これだけでもかつて会津藩で下の句を読んで下の句をとる板かるたが盛んに行われていたことがわかる。さらに大河ドラマ効果で、江戸時代の板かるたの現物も出現しており、会津発祥説は定説となった。