🗓 2019年12月07日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

平成29年6月14日、会津若松市慶山にある大龍寺では、八重の命日に合わせて歌碑の除幕式が行なわれた。これは八重の二つ目となる歌碑である。一つ目は平成元年5月30日、同志社によって米代にある宮崎家の門前に「明日の夜は」歌の歌碑が建立された。それに続く歌碑建立は、八重が当時無名だったこともあり、全く計画されなかったようである。
 それは平成25年に大河ドラマ「八重の桜」が放映された時も同じだった。その年の9月7日に福島県立博物館の前に八重の銅像が建てられたが、やはり歌碑建立の話は浮上しなかった。それが今回、平成30年の戊辰戦争150周年記念を前倒ししてか、大龍寺の「山本家之墓所」に歌碑が建立されたのだ。
 石碑に刻まれているのは、八重の自筆で書かれた、

たらちねの御墓のあとをとふことも今日をかぎりとなくほとゝぎす

という歌である。この歌は昭和5年4月、八重が三度目の会津若松帰省を果たした際に詠まれた4首のうちの1首だった。「たらちねの」は、普通は「母」にかかる枕詞であるが、ここは枕詞的用法ではなく、単に親(父権八)の意味で用いられている。というのも、八重の母佐久の墓は、会津若松ではなく京都若王子山頂の同志社墓地にあるからである。「御墓」は歌では「おはか」ではなく「みはか」と読む。
ついでながら八重が詠んだ残りの3首は、

若松のわが古郷に来てみればさきだつものはなみだなりけり
東山ゆみはり月はてらせどもむかしの城は今草のはら
老ぬれどまたもこえなむ白河のせきの戸ざしはよしかたくとも

である。八重自身はこれを腰折れと謙遜しているが、そんなにひどい出来の歌ではない。この4首のうち「たらちねの」と「若松の」の2首を、八重は墨書して徳富蘇峰に送った。幸い神奈川県中郡二宮町にある徳富蘇峰記念館に、それが大切に保存されていた。八重の歌を収めた封筒には、「昭和五年初夏新島未亡人和歌」と記されている。ここに八重の自筆が残っていたことで、今回それを歌碑に彫りこむことができたというわけである。
 では、どうして「若松の」ではなく、「たらちねの」の方が選ばれたのだろうか。というのも「若松の」もなかなかいい歌だと思うからである。おそらくその理由の一つは、内容が「墓参り」だからではないだろうか。もちろん父権八の墓は、戦死した一ノ堰に近い光明寺に建てられている。それでも大龍寺には、菩提寺ということで山本家先祖代々のお墓があった。
 しかもちょうど「たらちねの」歌を詠んだ同じ時、八重は大龍寺の墓所を整理・統合して、そこに石碑を建てることを計画していた。そのしるしとして「山本家之墓所」という墓碑銘を自ら執筆し、石碑に彫って残そうとしていた。石碑が完成したのは翌昭和6年9月だが、当時85歳と高齢の八重は、今後故郷に帰省して墓参りすることはできそうもない(これが最後)と覚悟したに違いない。その心境が歌に詠まれているのである。ちょうど初夏なので時鳥が詠まれている。「なくほとゝぎす」の「泣く」は、時鳥が「鳴く」と八重が「泣く」の掛詞になっている。
 こう考えると、八重自筆の「山本家之墓所」が刻まれた石碑の脇に、同じく八重自筆の「たらちねの」歌が刻まれた歌碑が建てられたのは、決して誤解でも場違いでもなさそうだ。むしろそれは八重の心に叶った建立だと思われる。
 さて八重の三つ目の歌碑はいつどこに建てられるのだろうか。重複してもいいから、「明日の夜は」歌の歌碑が、本来あるべき鶴ヶ城内に建立されることを願っている。