🗓 2019年12月06日

「桜飯」─所変われば品変わる─

 

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

 みなさんは「桜飯」あるいは「桜ご飯」という言葉の響きから、どんなご飯を想像しますか。中には想像する必要のない人もいるかと思います。現にその名の付いた料理が存在するところがあるからです。ただし勘違いしてはいけません。この「桜飯」は決して全国共通の料理ではなく、むしろローカルなご当地飯でした。
 長崎生まれの私は「桜飯」の存在を知りません。そのため「桜餅」から発想して、桜の花びらが混ぜ込まれた春限定のご飯ではないかと想像を膨らませたのですが、その期待は見事にはずれてしまいました。
 改めて「桜飯」を調べてみると、大きく三種に分けられることがわかりました。それは①茶飯(醤油御飯)の別称、②蛸飯の別称、③味噌漬大根飯の別称の三種です。それに後から本当に桜の花びらの塩漬けを入れたものも登場します。
 まず②の蛸飯ですが、なんと池波正太郎の「鬼平犯科帳」に出ています。池波が料理通なのは有名ですが、平蔵の部下に猫殿(村松忠之進)と称される料理通がいて、その猫殿が蛸飯を炊いて平蔵に食べさせるシーンが出てきます。「白根の万左衛門」という話です。平蔵が「おっ、桜飯か」と尋ねると、猫殿が「左様で、茹でた蛸を混ぜた飯でございますが」以下長々と講釈を垂れるというお馴染みの展開です。
 次に③の味噌漬大根飯ですが、これは司馬遼太郎の小説『峠』に出てきます。主人公河井継之助(越後長岡藩家老)の大好物が桜飯で、「味噌漬飯ほどうまいものはない」と口にしています。これは味噌漬けにした大根を細かく刻んで炊き込みご飯にしたものです。ところがその後、司馬が新潟を訪れた際、地元の人々に「味噌漬飯をお家でなさいますか」と尋ねたところ、誰も知らなかったというのです。一体、司馬は桜飯の情報をどこから仕入れたのでしょうか。
 ようやくある人が「旧士族の家庭だけのもの」と言ったことで、謎が解けました。当時越後長岡藩の藩主だった牧野氏は、徳川家康の家臣であった酒井忠次配下の東三河衆の一人だったからです。つまり桜飯は越後長岡の郷土料理ではなく、牧野氏によってもたらされた三河の料理だったというわけです。
 それによって①茶飯との関連も見えてきました。というのも、茶飯が静岡県浜松市の郷土料理とされているからです。「秘密のケンミンSHOW」という番組では、静岡県西部の「さくらご飯」として取り上げられていました。
 ご承知のように三河と浜松はそう離れてはいません。何よりどちらも徳川家康ゆかりの地でした。江戸の蛸飯も含めて、三つとも徳川ゆかりの料理といえるかもしれません。ただし①は特殊でした。それは何故かというと、②や③には具が入っているのに対して、①には酒と醤油と塩以外、具が何も入っていないからです。しかも醤油の量が少ないことから、茶色く焚けるので茶飯と称されたのでしょう。桜飯というのは、それを無理に桜色に見立てたからだと思われます。
 それにしても具が入っていないというのは、決して豪華なものではなく、むしろ極めて庶民的な貧しい食べ物だったと思われます。ひょっとすると具入りは上級武士の食べ物で、具なしは下級武士あるいは庶民の食べ物と分けられていたのかもしれません。
 それがいつの頃からか「さくら」の連想(「さくらさく」は合格!)によって、入試当日の弁当としても活用されるようになったとのことです。受験用ですからそう昔に遡れるものではありません。いずれにしても、これによって春の料理としての「桜飯」も定着していったのです。