🗓 2019年09月22日
吉海 直人
岩澤信千代氏の御労作『不一 新島八重の遺したもの』には、
幼な友達新島八重様に会えて
うれしさによる年波もうちわすれまたのあふせをいのり居るかな
という内藤ユキの歌が掲載されている。これは明治20年に八重が札幌を訪問した際、再会を記念して詠まれた歌である。それに続いて岩澤氏は、「二人は再び会うことがあったかどうか不明」(130頁)と述べておられるが、その後ユキは長男の一雄を同志社予備校に入学させている。一雄は明治24年7月25日に病で亡くなるのだが、その直前に八重から「一雄危篤」の電報が打たれたことで、ユキは京都に駆けつけており、そこで再会していることが判明した。その折、二人がどんな話をしたのか、歌を詠じたのかなどは一切わかっていない。
そのことがずっと気になっていたのだが、たまたま札幌に行く用事があったので、岩澤氏からの情報を頼りに、内藤光枝様(ユキの孫晋氏の奥様)のお宅を訪問させていただいた。幸い甥にあたる草野賀文様が同志社校友会北海道支部長だった縁で、最寄り駅からお宅まで案内していただいた。
お宅にはユキの詠草が小箱一杯保管されていたが、その中に「うれしさに」の短冊は発見できなかった。その代わり八重の自筆短冊が一枚見つかった。その短冊には、
御慶事をきゝて
いくとせかみねにかゝれる村雲のはれて嬉しき光りをぞ見る 八重子八十七歳
と書かれていた。これは八重の歌の中では有名なものの一つである。短冊の裏に「昭和三年秋よめる」とあることから、昭和3(戊辰)年に詠まれたものであることがわかる。
その年の9月28日、旧会津藩主・松平容保公の孫娘勢津子姫と秩父宮殿下の御成婚が行われた。皇族との婚姻によって、会津藩はようやく朝敵の汚名を返上することができたのである。奇しくも戊辰戦争から60年目の慶事であった。長年の群雲が晴れて嬉しいのは八重ばかりではない。それは旧会津藩士すべての喜びでもあった。今後は明るい光の下、堂々と胸を張って生きていくことができるからである。そのため八重は、何度かこの歌を短冊に書いて与えている。
なお昭和3年というのは、八重84歳(数え)の年である。ところがこの短冊には87歳と書かれている。となるとこれは、昭和6年にしたためられたものということになる。八重はこの年(死去の1年前)、大龍寺の山本家の墓所を整備するなど、自らの身辺整理に取りかかっていた。
この短冊の発見によって、八重と内藤ユキとの交流が昭和6年まで続けられていたことがわかった。八重はどんな思いでこの歌をユキに送ったのだろうか。この短冊が郵送された折の書簡(書きつけ)が残っていないことが惜しまれてならない。