🗓 2019年10月16日
大正10年の八重さんの行動
「八重の桜」の放映の頃、不一を読んだ新島学園の先生が我が家に取材に訪れた。「中野竹子奮戦の図」にある新島八重の賛などを説明した。
しばらくして発表された論文と上毛新聞の記事のコピーが同封されて送られてきた。
実は「不一 新島八重の遺したもの」に掲載したかったのだが、時間が合わず載せられない八重の手紙があったのである。
それは、山中湖にある徳富蘇峰記念館にあるものである。
まず、山形の広津友信を尋ね、それから、安中を訪れ、熱狂的な歓迎を受け、それから巣鴨の家庭学校に長期逗留して、それから京都に帰ったと蘇峰宛に書いている。
私の曾祖父がクキタチの種を送ったのは、収穫の時期的に5月頃であろう。
それから、山形、安中、東京の家庭学校を経て京都に帰り、曾祖父に礼状を書いたのが9月前半となる。
この一連の八重さんの行動が手紙、新聞により大正10年にわかるめずらしい年である。
77歳八重さん喜寿の年であった。
そして、時代が過ぎ、その時、我が家を尋ねたきれいな女性は白河出身の新島学園の先生、シュガーガトーおみやげから類推すると若松教会牧師であった山下智子さんではないかと思われる。
すなわち、同志社大学校友会福島県支部山下勝弘支部長のお嬢さんである。現在、吉海教授と職場を共にしておられる。
(文責:岩澤信千代)