🗓 2019年12月14日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「会津会会報」31号(昭和2年)に、興味深い記事が掲載されていた。それは長谷川美材氏「中野竹子女史の歌が彩管百人一首に撰ばるゝまで」である。「彩管百人一首」(「彩管」は絵筆のこと、正しくは「彤管とうかん」)とは、百人一首の模倣である異種百人一首の一つである。歌人でもある佐々木信綱が、上代から現今までの女傑百人一首の歌集を編纂していた折、幕末頃の勤王ならぬ佐幕派の歌がなかなか見つからなかった。ふと信綱は「明日よりは」歌を思い出したが、誰の作かわからないので、会津出身の長谷川氏にその調査を依頼した。その顛末は以下のように記されている。

 ふと若い時『佳人の奇遇』の中に、
  あすよりはいづこの人か眺むらんなれし大城にのこる月かげ
といふ会津落城の際の歌のあつたことを想ひ出したから、上野の図書館へ行て佳人之奇遇を引き出して見たが、作者の名がない。君は会津だから判るだらう、一つ調べて見て呉れまいかとの御話であつたので、ぢや早速調べて申し上げますと云つて別れて来たが、別に調べる手掛りがないので、松平邸へお願ひしたら早坂執事が会津の名誉でもあるとて委しく調べて呉れられた。其の歌は盲目の身を以て京都の市会議長に迄なられた会津の人傑山本覚馬氏の妹で、後に新島襄先生に嫁し九十余歳の高齢を以て現存せられる八重子刀自の作であるといふ事でした。

相談を受けた長谷川氏は、早速松平邸の早坂執事に尋ねたところ、新島八重の歌だとわかったので、それに中野竹子の「もののふの猛き心にくらぶれば数にもいらぬ我が身ながらも」歌を添えて送ったところ、なんと付け足した中野竹子の歌の方が採用されてしまったというのである。この「彤管とうかん百人一首」は、昭和2年2月に刊行された『和歌に志す婦人の為に』(実業之日本社)という本に収められている。いずれにしても中野竹子が入選したことで、残念ながら本命の新島八重は撰に漏れてしまったのだ。
 なお覚馬に関して「市会議長」とあるのは「府会議長」の誤り、八重について「九十余歳の高齢を以て現存せられる」というのは、「八十余歳」の誤りと思われる。会津人である長谷川氏は、細かなことにはあまりこだわらない人だったのだろうか。
 このエピソードから、いくつかのことが想起される。確かに『佳人之奇遇』に作者名は示されていないが、それが八重(川崎尚之助の妻)の歌であることは、既に「会津会会報」に掲載されていた。例えば「会津会会報」6号(大正4年6月)には、

戊辰の九月二十三日、君の城を出でさせ給ふべきに定りしかば、人々と共にいづるとて歌をよみてよゝと泣けり。同じ心に思ふものから殊更なる心地ぞせられし。
 川崎尚之助妻 八重子
明日よりはいづこの誰か詠むらん馴し大城にのこす月影

とあるし、次の「会津会会報」7号(大正4年12月)にも、

 中にも川崎八重子は夜深けて、熟々と城外を見渡せば、秋天一碧水の如く、月光さやかに城を照らして、秋風身に沁みて空寒く、千草にすだく虫の声はきぬぎぬの別を惜み鬼気惨として人に迫まる丑満頃感慨の余り笄を抜きて城中の白壁に一首の歌を刻みて、
  明日よりは何処の誰か詠むらん馴れし大城に残す月影

 と記し、緑の黒髪をなぎて爾来戦死者の冥福を弔つたと云ふことである。
と連続して出ており、会津会の中ではそれなりに知れ渡っていたはずである。
 それもあって『会津百人一首』(毎夕新聞社・昭和49年)には、

七三、山本八重子
明日の夜はいづこの誰かながむらんなれし大城にのこす月影(会津戊辰戦史)
七八、川崎尚之助
このころは金のなる子のつな切れてぶらりとくらすとりごえの里(会津会会報20)

と、夫婦で撰入されている。できれば夫婦並べて掲載してほしかった。