🗓 2020年03月28日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

 前に風間久彦のことに触れたので、ここでは天野謙吉氏を紹介したい。彼のことはたまたま「会津史談」51号に掲載されている、相田泰三氏「天野謙吉先生のお手紙」という短文を読んで知った。会津若松出身の天野氏は、京都大学医学部在学中に八重を訪ねたことがある。訪問の目的は、「明日の夜は」歌の5句目の本文異同に関して、「残る」が正しいのか「残す」が正しいのか、八重に直接尋ねたかったからだった。
 その質問に対して八重は即座に、

「のこる」ではない「のこす」だ。「のこす」でなくてはだめだ。

と答えた。その八重の気迫に、天野氏は「おばあさまはなかなか心臓だ」と思ったと書かれている。天野氏は在学中に京都会津会の学生幹事を務めたこともあって、しばしば八重を訪ねたようだが、そのついでに八重から懐古談も聞いていた。

おばあさまが、はた織りをしていると、白虎隊が来て、
「お八重さん、鉄砲を教えてくれ」
と、云うので白虎隊に鉄砲の打ち方を教えてやった。
又、籠城して負傷者の手当をしておったが、夜、女の姿ではいけないと云うので、男装して鉄砲打ちに行った。

これによれば、白虎隊の伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えたことや、夜襲に出たことなど、八重は天野氏に対して得意の懐古談を語っていたことがわかる。それだけでなく、天野氏は当時の八重の家庭生活についても以下のように述べている。

おばあさまは、御所の東の同志社から少し離れたところにおられましたが、せいが高く、背程がまっすぐで、少しもとしよりくさいところがなく、元気でどうどうとしておられました。風間君と参上すると、少しも邪魔そうでなく、茶菓なんかいただいてゆっくりして来ました。お家は廊下が庭に面した周囲を通って、中に入るように出来ていたように記憶いたします。
 元、少将の奥田重栄さまなどは、いつか「お八重さま」「お八重さま」と姉様を呼ぶように呼んでいられました。
 お正月などは「ハッピー・ニューイアー」と英語で話しかけられておられました。

80歳を過ぎてなお八重の背が高いこと、正月に英語で挨拶していたことを含めて、これらは貴重な証言であろう。なお文中の「風間君」こそは、風間久彦氏のことである。昭和5年4月19日に風間久彦宛に書かれた八重の手紙には、逆に天野氏が八重を訪ねて来てくれたことが記されていた。
 さて肝心の本文異同だが、天野氏は「明日の夜は」歌の短冊を所有しており、それを根拠にどちらが正しいかを決定するのかと思っていた。しかしながら短冊は所持していなかったようだ。そのため最終的な判断は、

私の記憶では、
  あすよりはいづこの誰か眺むらんなれしおしろにのこす月影
だと思います。

と、資料ではなく記憶によって答えを出している。八重に尋ねた「残す」はそれでいいとして、これでは初句が「明日の夜は」なのか「明日よりは」(『佳人之奇遇』本文)なのか、という新たな本文異同が浮上してしまう。ましてこのままだと、八重自身が「明日よりは」を正しいと主張していると誤解されかねない。しかし八重の書いたものの中に、「明日よりは」となっているものは一つも見当たらないのだ。
 なお天野氏については、「会津史談」54号に、五十嵐勇作氏が「天野謙吉先生を偲ぶ」という短文(弔文)を寄せている。それによれば明治37年に会津若松で生まれ、昭和54年6月15日に亡くなっていることがわかる。卒業後、長く医師として働いていたのみならず、昭和45年1月にはキリスト教の洗礼を受けているとあった。