🗓 2020年09月27日
「これ(アヘン戦争)により危機感を強くした藩主島津 斉彬は大規模な近代化事業に着手する。こうした反応は薩摩が取り立てて開明的だったからとは思えない。単に火元近かったことに起因するのだ。東北には東北の秀才が当然ながら居る。ただ、火元からは遠かった。」
これは2018年戊辰150年の年に編集した「薫猶を選びて」に寄稿していただいた薩摩(鹿児島県)の15代沈寿官氏の寄稿文にある。記念誌を発行するときに敵国の言い分も聞こうということで長州の山本貞寿氏(長州と会津の友好を考える会代表)と薩摩の沈寿官氏に依頼したのである。沈寿官氏は大学の同窓であり、アピオで薩摩焼の展示即売で会津に来られた時に東山温泉の「向井滝」で酒を酌み交わして以来、年賀状のやり取りを続けている間柄である。沈寿官氏はかなり多忙な方である。県をまたいで国内のみならず世界を飛び回っておられる。「沈寿官窯」に連絡して秘書の方を通じて依頼し、快く寄稿していただいた。記念誌の中で最も秀逸な文章を頂いた。NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」に父上の14代沈寿官氏と共に出られていた。本当に飾り気がなく会津でお会いした時のように笑顔を万面にたたえておられる。作成される薩摩焼は繊細で豪華である。厳しい面がなければあれほどの緻密な作品はできないだろうと思うがありのままのお姿はいたって穏やかである。父上の14代沈寿官氏のもとへ司馬遼太郎が訪れ、「故郷忘じがたく候」という傑作を書いた。14代沈寿官氏がソウル大学で学生に向かって講演した場面は胸に詰まる。
江戸時代会津藩の日新館は佐賀の藩校と並び東西の双璧であり、全国的に最高の教育水準であった。戊辰の敗戦後も山川健次郎はじめ多数の卒業生が活躍したことでその優秀性がうかがえるだろう。東北には東北の秀才がいた。まさに会津にも秀才がいた。
だが、海がなかった。薩摩長州はイギリスと戦い賠償金をたんまりせしめられた。また薩摩は密貿易でたんまりと資金をため込んで富国強兵策を取り軍事力も強くした。一方の会津はどうだろうか。日新館の蘭学教授であっった山本覚馬は、軍政改革を藩の首脳に提言した。藩の首脳の下した判断は「1年間の禁足」であった。覚馬は1年間を謹慎に使わされた。
覚馬のいうとおりに西洋式への軍制改革を行っていたら、武力の差で西軍に圧倒されることはなかったろう。白河の戦いでは同盟軍2500名であったの対してわずか700人の西軍の火力の前に敗れ去った。軍事の指揮能力のなかった西郷頼母が大将だったのも不幸であったが。また薩摩と違い、会津藩は蝦夷警備、房総警備に戦費を使い果たし、新式の銃も大砲も買う資金もなく台所は火の車であった。その中で梶原平馬が買い付けした新式銃も新潟港が西軍に占拠され会津藩に届くことはなかった。
会津藩には秀才がいたが海がないために外国の脅威が理解できなかった。尚且つ諸外国情勢を良く知る山本覚馬の意見を重用しなかった。
「家訓の第一条 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく・・・・」とともに会津には海がなかったことが不幸であった。
ちなみに150年記念誌「薫猶を選びて」はほとんど在庫がなくなり、鶴ヶ城売店と白虎隊記念館にわずかながら置いてある。
(文責:岩澤信千代)