🗓 2020年12月01日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

会津藩の山本家は、順調に長男の覚馬が相続した。その覚馬には先妻樋口うらとの間に娘の峰が誕生しているが、男子は誕生していない。その後、京都守護職となった藩主松平容保に従って京都に行った覚馬は、死を覚悟していたかもしれない。もし覚馬が戦死すれば、山本家は弟の三郎が継ぐことになる。しかしその弟も、鳥羽伏見の戦いで負傷し、若死にしてしまった。
 後に残っているのは妹の八重だけである。その八重を川崎尚之助と結婚させたのは覚馬であった。結婚後も二人が山本家に住んでいるところからすると、あるいは尚之助を八重の婿養子にして、山本家を継がせる目論見があったかもしれない。しかしながらその尚之助も、八重と離婚してしまった(八重は子を産んでいない)。
 幸い覚馬は生き残った。京都で身の回りの世話をしていた小田時栄と愛人関係になったことで、樋口うらとは離婚し、時栄と正式に結婚した。その時栄は次女久栄を出産しているものの、やはり男の子は生まれなかった。そうなると二人の娘のどちらかに婿養子をとって、その娘に男の子が生まれたら、その子に山本家を継がせるのが最善策であろう。
 覚馬は、早くから長女峰の婿になりそうな人物を探していたらしい。「英文京都案内記」のコラムで引用した「先生の娘の婿養子にするつもりで山本家にいた喜三郎という人」を信じれば、喜三郎という書生がその候補者であったことになる(会津出身か)。ただし峰は喜三郎ではなく、同志社英学校の横井時雄と結婚した。横井時雄は思想家横井小楠の子であるから、覚馬にとっても婿として不足はなかったはずである。
 幸い峰は子宝に恵まれ、明治16年には長女悦子が生まれ、続いて明治20年には待望の長男平馬が産声をあげている。この平馬という名は、横井小楠(平四郎)と山本覚馬から一字ずとって命名されたものである。覚馬の期待の大きさがわかる名前といえる。ところが峰は産後の肥立ちが悪く、出産後に亡くなってしまった。
 生まれたばかりの平馬の養育は、本来ならば覚馬が引き取って、妻の時栄に任せるところだが、その時栄は若い男と通じて懐妊するという不祥事件を起こし、明治19年2月12日付けで離縁され、実家の小田家の戸籍に復帰していた。
 そのため平馬の世話は、山本家にやっかいになっていた覚馬の妹窪田うらとその娘に委ねられたようである。そのことは徳冨蘆花の『黒い眼と茶色の目』に、

病人先生の夫人には姉、山下さんには妹に当る黒田のおくらさんが赤ン坊の保母をかねて入り込むことになった。おくらさんはもう六十近い会津訛りの京都言葉を使ふ蒼太りした中婆さんであった。

(159頁)

と書かれている。小説なので虚構も混じっているだろうが、「黒田」は「窪田」で「おくら」は「うら」で合致する。

覚馬は当初の予定通り孫の平馬を養子にし、山本家を継がせることにした。そのことは土地の登記簿によって確認されている。覚馬の住んでいた河原町二条下る二丁目下丸屋町の土地の所有者が、覚馬が亡くなった翌年の明治26年2月15日に、遺産相続によって山本平馬に名義変更されているからである。
 そんな大事な山本家の跡取りなのに、覚馬が亡くなった後の平馬の消息はよくわかっていない。相続した土地にしても、平馬は明治32年11月13日に下京区五条大橋東入二丁目に転居しており、その後人手に渡っている。丸茂志郎氏の調査によれば(『山本覚馬の妻と孫』)、山本家を出た平馬は増田伊三郎の厄介になり、岩間きみとの間に格太郎という息子を儲けたとのことである。その格太郎は山口鉄之助・ヤス夫妻に養子に出され、山口格太郎となる。肝心の平馬は、昭和19年まで生存していたとのことであるが、八重や同志社との接点は一切見当たらない。
 次女の久栄は、徳冨蘆花との恋愛事件を起こしたことで有名だが、母が離縁になった後もずっと覚馬の世話になっていた。ただし結婚はしておらず、覚馬が亡くなった一年後の明治26年7月20日に、脳膜炎で夭逝している。
 平馬の姉の悦子にしても、永井定次に嫁いだことで山本家から離れていった。横井時雄にしても、後に柳瀬豊と再婚して何人かの子を儲けているので、悦子は横井家とも疎遠になっている。
 遺伝子のつながりということでは、窪田家に嫁いだ妹のうらに二人の娘がいるが、二人とも結婚した後で山本家から離れているようである。もう一人の妹八重にしても、川崎尚之助との間にも新島襄との間にも子はできておらず、結局山本家を相続する人は途絶えてしまった(山本家断絶)。