🗓 2020年12月19日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

新島八重の伝記を書いているうちに、八重が女紅場の教師になったという事実が目に付いた。そこで女紅場についてろくに検証もせず、安易に伝記資料として活用してしまった。今になって、そのことが悔やまれてならない。
 そこで坂本清泉・智恵子著『近代女子教育の成立と女紅場』(あゆみ出版)という本を読んでみた。すると第一章に「新英学校及女紅場」が書かれていた。しかもそこに書かれていることは、私の安易な女紅場の知識とはかなり違っていたのである。
 第一に「新英学校」について、私は先に男子の「英学校」が設立され、遅れて女子の「新英学校」が設立されたとばかり思っていた。ところが本書には、

新英学校及女紅場は、開設当初男生徒も就学させたが、一八七四(明治七)年六月、男生徒を英学校に移し、校名も英女学校及女紅場とし、もっぱら女子の教育機関となった。

(32頁)

と記されていた。開校当初、新英学校には男子生徒も在籍していたことになる。「英文京都案内」を編集した丹羽圭介もこの学校に入学していたことがわかった。どうやら「新英学校及女紅場」というのは、「及」が示すように一つの統一された学校ではなく、二つの異なる学校が並存するものだったようである。また女紅場は主に裁縫を教える学校と思っていたが、内実は桑畑まであって、養蚕にも従事していた。要するに「衣服材料を生産する一切の工程をふくめた仕事」を教授する学校だったのだ。この方が八重にとっては実力を発揮しやすかったに違いない。

二つ目は英語教師イーバンス夫妻のことである。女紅場開校時に英語の教師として招聘しょうへいされたイーバンス夫妻だから、私はその後もずっと女紅場で教鞭をとっていたと思い込んでいた。ところが本書には、

一八七三(明治六)年三月、契約期間満了とともに解雇される。彼らに対する評価はかんばしいものではない。いくつかの報告は、不謹慎傲慢などの評価を下している。

(38頁)

とあって、なんと一年後には解雇されたというのである。となると、明治8年に新島襄が女紅場見学に訪れた際、英語の教師はイーバンスではなかったことになる(当時はウェットン夫妻が在職していた)。そうなると、イーバンス婦人から八重のウェディングドレスを調達することも不可能になる。「八重の桜」はやはり虚構だったのだ。

三つ目は茶道に関することである。従来は明治5年4月の開校時から、女紅場には茶道の科目が設けられ、裏千家の猶鹿子ゆかこが教えていたとされていた。そのため八重と猶鹿子は同僚だったと思われていた。ところが本書によると、

一八七八(明治十一)年からは、抹茶および食礼、一八七九(明治十二)年からは、絃歌、香道、挿花の授業が行なわれるようになる。

(37頁)

とあり、茶道は遅れて明治11年に科目として採用されたことになる(私の手元にある「女学校女紅場規則」(明治13年12月25日)には「抹茶」の科目は掲載されていない)。もしそうなら、既に八重が解雇された後なので、八重と猶鹿子は女紅場で同僚として顔を合わせたことなどなかったことになる。八重が明治27年から茶道を習い始めることを考えると、むしろこの方がすっきりする。

最後に槇村正直が新島襄に八重との結婚を勧めた際、

山本覚馬氏の妹で、今女紅場に奉職している女は、度々私のところへ来るが、その都度、学校の事について、いろいろむつかしい問題を出して、私を困らせている。

(『新島八重回想録』67頁)

と発言しているが、ここにある「いろいろむつかしい問題」というのがずっとはっきりしなかった。私は金銭的な要求だろうと予測をつけていたのだが、この本にそれを裏付けるようなことが書かれていた。「女紅場等基金出納伺」という資料によると、授業に必要な教材費は学校で調達することになっており、その金は生徒の作った製品を販売して当てるとある。ただし開校当時なので販売できるまでには至っておらず、当然赤字続きだったわけである。八重はその赤字補填を槇村に頼んでいたのではないだろうか。

以上のことは、あくまで『近代女子教育の成立と女紅場』に依拠しての私の解釈である。従来の説と大きく齟齬している点は、今後さらに資料をつき合わせて、きちんと検討していかなければなるまい。いずれにしても覚馬が関与して開設された京都の女紅場は、他の女紅場とは違い、かなり質の高い学校だったようである。