🗓 2021年04月17日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

朝ドラ「エール」の再放送を見ていて、若き日の音さんが学芸会(竹取物語)の最後に「朧月夜」を歌ったのが印象的でした。唱歌「朧月夜」については『古典歳時記』で触れましたが、迂闊うかつにも2番の歌詞「かわずの鳴く音も鐘の音も」について、何もコメントしていませんでした。そこであらためて紹介することにします。2番は、

二 里わの火影も森の色も  田中の小路をたどる人も
  蛙の鳴くねも鐘の音も  さながら霞める朧月夜

ですね。隣接しているところにというか、対句になっている「蛙の鳴く音」と「鐘の音」に同じ「音」という漢字があてられています。これはどう読み分ければいいのでしょうか。蛙の方は「ね」で鐘は「おと」です。ではこの読みの違いは意味の違いなのでしょうか。それとも意味の違いではなく、単なる音数(字数)合わせなのでしょうか。これがなかなか難しい問題なのです。

一般的に「おと」は不規則かつ非音楽的音声で、「ね」は韻律的音楽的音声とされています。古典を研究している私としては、もっとわかりやすく生物の鳴き声・小さな音・情緒的なものは「ね」で、無生物・大きな音・不快な雑音などは「おと」と分けたいところです。太鼓はどうしても「おと」になります。ではピアノはどっちでしょうか。
 もちろん「鐘の音」は不規則ではないし、必ずしも不快なものではありません。そこで「近江八景」という曲(お手玉歌)では、「三井寺の鐘の音(ね)」という歌詞になっています。近くで聞くと騒音かもしれませんが、遠くで聞くとなかなかいいものです。
 同じような例を探すと、『枕草子』初段にも、「風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」とありました。ここでは風は「おと」で虫は「ね」と読んでいます。もちろん「風の音」は、必ずしも雑音ではありません。むしろ心地よいものです。その証拠に、

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今集169番)

の「風の音」は、強風ではなく秋の訪れを感じさせる涼風でした。

次に『源氏物語』夕霧巻には、

虫の音も、鹿のなく音も、滝の音も、ひとつに乱れて艶なるほどなれば、

(新編全集408頁)

とあって、ここでは虫と鹿は「ね」で滝は「おと」になっています。もうおわかりかと思いますが、「ね」には「哭(泣く)」の意味が含まれているようです。そのため掛詞として、鳴き声を「ね」と読むことが多いのです。ただし例外もあります。鹿の鳴き声は必ずしも「ね」ではなく、「声」とすることも少なくありません。それは「鐘の音」も同様です。『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり」など、「鐘の声」から深い意味(比喩)まで読み取らなければなりません。

こうなると今度は、「音」と「声」の違いは何かという問題が浮上してきます。現代の説明として、「おと」は無生物が発するもので、「こえ」は生物が発声器官を使って発声させるものと定義されています。しかしこれでは「鐘の声」の説明はつきそうもありません。そこで時代的変遷を導入してみましょう。
 古典では「声」は生物だけでなく、弦楽器や打楽器にも用いられていました。こういった人間が奏でる楽器は、人間の声の一部(延長線上)と認識されていたのです。そう考えると、「ね」と「声」が重なる理由も納得できます。
 これを応用すれば、感情移入できるものが「ね」で、できないものが「おと」という分類も可能かもしれません。平安時代には、そういった繊細な使い分けが確かに行われていたのですが、鎌倉時代(武家社会)以降、徐々に区別が曖昧になっていきました。「蛙」にしても、現代人は「かえる」と読むでしょうから、そうなると「かえるの鳴く音」は騒音・雑音に分類されるかもしれません。
 なお近代的な脳科学の成果として、日本人が自然の音を左脳で知覚するのに対し、西洋人は右脳で知覚するという報告がありました。だから西洋人は自然の音を雑音と感じ、日本人はそれを意味のある言葉として感じるのだそうです。それは音感というより、日本人特有の美意識ともいえます。もしそうなら、日本人である以上、「おと」と「ね」の違いにもっと敏感でありたいものです。