🗓 2021年05月31日
白虎隊の唯一の生存者飯沼貞吉は長州に行ったか?
長い間あり得ないと思っていた私のところへ知人が訪ねてきて、植松三十里氏の「ひとり白虎」という著作があることを聞いた。そこで通販で取り寄せて読んでみた。護国寺に謹慎していた飯沼時衛・貞吉親子の元へ楢崎頼三が現れ長州へ連れて行くところから物語は始まる。その護国寺謹慎者名簿のコピーは白虎隊記念館にあり、猪苗代謹慎者名簿にも確かに飯沼親子の記載があった。
その護国寺に忽然と楢崎が現れるところから無理がある。何故楢崎が旧会津藩士の謹慎場所である護国寺に突然現れるのか?数百人いる会津藩捕虜の内、何故飯沼貞吉を選んだのか?いつからいつまで楢崎家にいたのか?明治2年末までは護国寺の謹慎者名簿に貞吉の名前が載っている。それを書いたのが父飯沼時衛隊の部下山田善八である。隊長の子供の顔を知らぬはずがない。貞吉の弟関弥も護国寺から静岡の林塾に行ったと証言している。政府軍は、捕虜は点呼して総数は把握してるはずである。貞吉の捕虜身代わりがいたとでも言うのか?
貞吉が長州に行っていたというのは楢崎頼三の実家近くに住んでいた高見フサという方の幼少時の記憶のみの口伝である。その中の「貞さあ」と呼ばれていた。「楢崎の馬の轡を取ってきた少年には会津訛りがあった。」とか高見フサの幼少時の記憶があるのみである。物証はなく、飯沼貞吉が後年語ったという証言も皆無である。
ところが山口県美祢市には「恩愛の碑」という美談を伝える碑が立っているという。450万の建設費だったようである。勝ち組の長州藩士が敗者である会津藩の白虎隊士の生き残りの面倒を見た。確かに美談であるが、どうも捏造された史実の匂いがする。いみじくも会津藩飯沼家の家禄は450石の上級武士である。何故か、450という数字のみが一致する。
「明治2年小石川護国寺芝増上寺」に収監された旧会津藩士の名簿。
明治2年に飯沼隊に所属していた山田善八氏(記録者)の子孫から白虎隊記念館が譲りうけたものである。
筆頭の飯沼時衛(一正)が貞吉の父である。貞吉は次男。
(文責:岩澤信千代)