🗓 2021年09月25日
吉海 直人
令和3年9月21日は中秋の名月です。昨年は10月1日でしたから、新暦では毎年かなり日付が異なっていることがわかります。これは旧暦の8月15日を、新暦換算しているために生じたことです。そのために10月に食い込むこともあるのです。なおこの日は必ず仏滅になります。
もう1つ、昨年は満月の前日が中秋の名月になっていました。これは新月を1日として、15日目を満月とする暦の数え方と、天文学的に月が太陽の反対側になる日とにずれが生じるからです。このことは既に「「名月」と「満月」」(『古典歳時記』)で触れました。今年は満月と同日になっています。それを踏まえて、ここでは満月に付き物の月見団子についてお話します。
秋の年中行事として、毎年中秋の名月には薄を飾ったりお団子を食べたりしています。薄を飾るのは、稲穂の代わりともいわれています。稲穂に似たイネ科の薄を飾ることで、それが神の依り代となり、また邪気を祓ってくれるとも信じられていました。
なお、月見は年に1回だけの行事ではなく、旧暦9月13日(豆名月・栗名月)にもう一度行われています。今年は10月18日ですのでお忘れなく。江戸の庶民は2度月見をすることで、行事を完結させていたのです。1回だけだと片月見といって縁起が悪いとされていました。なお閏月が8月や9月に入ると、2度目の閏8月15夜や閏9月13夜もありえます。元禄四(1691年)年には閏8月があったらしく、芭蕉は川舟に乗って「名月は二つ過ぎても瀬田の月」という句を詠んでいます。
もともと観月の行事は、中国で発生したものでした。ただし本場中国においても、古くから観月の風習があったわけではありません。むしろ盛唐頃に流行した新しい行事だったようです。『白氏文集』の「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」などがその代表例です。遣唐使派遣によって中国文化が日本に輸入される中、観月の宴も日本にもたらされました。
中国好きの嵯峨天皇は大沢の池に船を浮かべ、水面に映る月を眺めたそうです。ですから古い『万葉集』などには観月の宴は認められません。また『竹取物語』では、月を見るのは忌むべきことと逆に忌避されています。そのためか『古今集』にも中秋の名月は歌われていません。観月にはプラスとマイナスの2つの考え方があったのです。
貞観年間(860年頃)以降、観月の詩宴が盛んに行われるようになりました。延喜五年(905年)には、初めて宮廷行事として観月の宴が開催されています。もともと宮廷行事として行われていたものが、武家社会を経て庶民に広がったのは、江戸時代まで下ります。現在一般に行われている年中行事の大半は、徳川幕府によって定められたものと見て間違いはありません。江戸時代には、月見にふさわしい場所(名所)まで特定されています。
当然、宮中から広がった関西の行事と、江戸幕府から広められた関東の行事では、月見の楽しみ方に違いが生じています。よくいわれているのが団子の違いでした。関東では円くて白い月見団子を、三方に三段重ねにして15個飾ります。それに対して関西では、里芋に似せた団子をこし餡でくるんだものが主流です。会津若松の作法はどうなっていますか。
もちろん関西の方が古い形式を残しています。というのも中秋の名月は、ちょうど里芋の収穫期と重なっており、そのため「芋名月」という別称が存しているからです。その芋名月にちなんで、収穫したての里芋をお供えしたというわけです。これは宮廷行事の中に、豊作を感謝する収穫祭が紛れ込んでいるのでしょう。みなさんも感謝していただいてください。
それが調理済みの「きぬかづき」となり、さらに米粉でこしらえた団子に換わっていきました。関西では、現在も里芋(きぬかづき)のおもかげを団子に残しているのです。ただし関西といっても、里芋風の月見団子は京都・大阪・滋賀に集中しているようです。それ以外は関東風の月見団子か、中国・四国では串団子が多いとのことです。また秘密のケンミンSHOWでは、愛知県の三色月見団子が紹介されていました(2011年12月8日)。
満月を模した関東風の団子にしても、餡なしか餡付きかの違いがあります。それだけでなく、丸いか饅頭型かの違いも生じているようです。月見団子も案外複雑ですね。