🗓 2022年01月17日
ニュースを見ていて当時の記憶がよみがえった。
私はその時横浜支店の営業課長で支店長・副支店長に次ぐNO.3の序列であった。株式相場は9時から始まるので前にある株価ボードが動き始めたのだが隣に座っていたもう一人の第2課長が頻繁にいなくなる。どうしたの?と聞いたら関西方面で地震があったという。その時まで5時46分に発生した地震のことを私は知らなかったのである。。高校時代の修学旅行と友人の結婚式で神戸舞子ヴィラに行ったのとその帰りに広島県福山市出身のY君の実家に立ち寄ったくらいで東北の田舎出身の私にとって、関西は遠い。それにしてもN課長は隣の部屋(食堂に使っていた)にあるテレビを見に頻繁に行っていた。「どうしたの?」と聞くとテレビを見てきたとの事。その時までN課長が兵庫県出身であることも知らなかったのである。気になるはずである。幸いにN君の自宅は伊丹市であり、ご家族も無事であった。ニュースで見る火災の映像はこの世の物とも思えぬ悲惨な状況であった。後日、高速道路にバスがひっかり今にも落ちそうな写真も公開された。あの煙の向こうに多くの犠牲者がいたのだと知るのは時間が経ってからである。
横浜支店在職中に今一つの大きな思い出がある。高校同級生の室井光弘君が芥川賞を受賞したのである。高校時代のクラスメイトであるが、国語のS先生に室井君は特段可愛がられていた。S先生は室井君の才能に気が付いていたのかもしれない。室井君は一浪して早稲田政経学部に入学した。早稲田の校内は狭い。現役で大学に入り1年経って、彼と再会したときはうれしかったので、立ち話などしていた。しばらくすると室井君と会うことはなくなった。芥川賞受賞の記事を読むと慶応大文学部卒となっていた。早々に早稲田に見切りをつけ慶応大文学部に入り直していたのだ。政経学部から文学部へと変わっていた。
通勤電車で新聞を見て、会社に来てから高校同級生が芥川賞を受賞したことを大声で喧伝したが、誰一人賛同の顔を見せたものがいない。毎日朝礼があるのだが、その前に日経新聞を読み各自相場シミュレーションをしている時間帯だった。2.3度大声で友人の快挙を宣伝したのだがただ浮き上がっていしまった情けない自分を発見するだけだった。つまり芥川賞を評価する社員がいなかったのである。
その後、彼の名前をネットで検索したのだが3万円とか高額の研究書らしき本を書いていて図書館の蔵書としての機能しかないなという印象であった。であるから他の人と違い彼は流行作家にはならなかった。3年前に彼の訃報記事を読んだのだが、「芥川賞受賞者が高校のクラスメート」という相乗りの誇りが遠くへ行ってしまった。今ネットで見たら1955年1月7日生まれである。私は1955年1月20日生まれで誕生日が近い。64歳の早すぎる天才というより努力家の友人であった。ご冥福を祈る。
(文責:岩澤信千代)