🗓 2022年10月29日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「七五三」というと、11月15日の年中行事のことを思い浮かべる人が多いようですが、同志社に関わりのある人は、それよりもまず校祖・新島七五三太(襄)のことが想起されるはずです。この場合の「七五三」は「しめ」と読みます。女の子ばかり生まれた新島家にようやく男の子が生まれたので、祖父が思わず「しめた!」と叫んだのが名前の由来とされています。また襄の誕生日が1月14日だったことから、まだ正月のしめの内(注連縄しめなわをはずす前)ということで、七五三太と命名されたとも言われています。
 さて本来の「七五三」ですが、現在は三歳の男女(あるいは女子のみ)、五歳の男子、七歳の女子が11月15日に着飾ってお宮参りする行事と定められています。ではその起源はご存じでしょうか。もともと年中行事の始まりというのは不明瞭なのですが、特に七五三についてはほとんどわかっていません。というのも一つの行事ではなく、三つの行事が集められているからです。
 しかも「七五三」という名称は、資料的には明治以前まで遡れません。それを前提にして、どうして11月15日かということについては、五代将軍徳川綱吉が長男徳松(館林藩主)の三歳の祝いを天和元年(1681年)11月15日に催したことが起源とされています。ちょうどその日は二十八宿の鬼宿日きしゅくにちに当っていたので、子供のお祝いをするには吉だったようです。
 これがきっかけとなり、江戸の武士たちの間で11月15日に子供の成長を祝う行事として定着していきました。要するにもともと狭い関東圏における、しかも武士階級の風俗だったのです。ですからそれが京都や大阪で行なわれるようになるのは、それからずっと後ということになります。
 ただし初出例は武家における三歳の男の子ですから、これを七五三の起源としていいのかどうか難しいところです。もともと平安時代の貴族社会では、生まれてから三歳までは頭髪を剃り、三歳から髪の毛を伸ばし始めたそうです。それを「髪置きの儀」と称していました。ですから将軍家の儀式とはルーツが異なっています。
 五歳の「袴着」にしても、もともとは平安貴族の儀式でした。ただし年齢には幅があるし、男女共に行なっていました。鎌倉時代以降、武家の行事にも広がったことで、徐々に男の子のお祝いとして定着していったようです。
 最後の七歳ですが、「袴着」が男の子に独占される過程で、女の子の行事として固定していったようです。七歳までは紐で着物を留めていたのを、七歳から大人と同じように帯で留めるようになります。それを「紐落とし」あるいは「帯解き」と称しました。
 以上のように七五三というのは、かつては年齢も定まっていなかった別々のお祝いが、徐々に合体して三歳・五歳・七歳に区分され、遂に11月15日に特定された珍しい(作為的な)行事だったのです。当然現在のような形態になったのは、それこそ明治時代以降ということになります。非常に新しい年中行事といった意味がおわかりいただけましたか。
 もともと「髪置き」にしても「袴着」にしても貴族の儀式でした。それが徐々に武家に広がり、さらに大衆化していったわけですが、そこには晴れ着を売るという呉服屋さんの商魂も見え隠れしています。もちろん神社側にとっても、お参り(お賽銭)が増えるのはありがたいことでした。
 なお、その日に買い求める縁起物の千歳飴にしても、最初からあったのではなく、浅草の飴売り七兵衛が元禄以降に「千年飴」として売り出したのが最初で、それが全国的に「千歳飴」として広まったとされています。かくして現在のような七五三が全国的な年中行事となったのです。