🗓 2023年10月28日
斗南会津藩は挙藩流刑とよく言われる。3万石とはいうが実石高は7000石であった。会津23万石の藩士家族17000人が不毛の地に移動させられた。新政府の援助がなければ到底藩士家族は養えない。北辺の地を選んだ山川浩や永岡久茂は一生懸命行政を行ったが、火山灰の地に作物は育たなかった。貿易をしようと遠大な計画のもと大湊港の建設や運河の掘削も考えたが、1年7か月で廃藩置県になり斗南藩は消滅した。
しかし、ここに疑問が残る。不毛の地とはいいながら、実はヒバ林というダイヤモンドを持っていたのに活用しなかった。太田広域ひきいる八戸藩は、士族に山林を分け与えた。国有林になるという噂を聞き付け、私有地にしたのだ。おかげで士族は大地主になり裕福になったという。もし、斗南藩も同じく士族に土地を分配していれば苦労の倍返しの幸福を得ることができた。斗南藩の歴史に詳しい葛西富夫氏の本を読んでいて見つけたのだが、原因は会津武士の潔さのように書いてあった。国家の財産になるものの私有化に抵抗感があったのか。「北斗皆帝州」で天皇から土地をかすめ取ることを避けたのか、全く不明である。
山川浩や永岡久茂などの秀才が何故それをしなかったのか、私には理解できない。太田広域と廣澤安任とが話し合って斗南藩は、裕福な津軽藩など5藩統合して一緒に青森県となったのだから国有林の話は聞いていただろうに。
斗南のヒバは会津藩士が余市に入ったときに家を建てるために運んだとの記録があるそうだ。それも一度切りである。
斗南藩が不毛の地の開墾のみに追われ、青森ヒバの活用を考えていたら旧会津藩士の運命も相当違ったものになっていた。
国有林の時は、藩士を山林王にいくらでもできたのに、悔やまれてならない。
(文責:岩澤信千代)