🗓 2023年12月30日
吉海 直人
来年の大河ドラマは「光の君へ」ですね。「光の君」というのは、もちろん『源氏物語』の主人公・光源氏のことです。ただしタイトルが「光の君へ」だからといって、主人公が光源氏だというわけではありません。光源氏は虚構の物語の主人公ですから、大河ドラマの主役にはなれないのです。ですから今回の主役は作者の紫式部でした。しかしながら、そもそも紫式部のことなど歴史資料に描かれることはありません。高貴な女性であれば本名も記載されるし、亡くなった時に年齢も書かれるので、そこから生年を計算することもできます。それに対して紫式部は下級貴族なので、そういった記録は一切ありません。
それに対して娘の賢子は、幸い親仁親王(後冷泉天皇)の乳母になったことで、従三位(公卿相当)に叙せられたことで、本名もわかっています。でもその賢子ですら、高階成章と再婚して宮廷から離れているので、没年は未詳です。没年が不詳だということは生年も年齢もわからないということです。もっとも賢子が誕生したのは、紫式部が藤原宣孝と結婚した一年後(長保元年(999年)前後)でほぼ間違いないと思います。没年は従三位に叙せられた天喜二年(1054年)以降ですが、最長は永保二年(1082年)頃とされています。その説なら83歳で亡くなったことになります(かなり長寿)。あるいはそこに同名別人の大弐三位との混同が生じている可能性もありそうです。
三位の賢子ですらこの程度ですから、それより身分の低い紫式部の生没年がわかるはずはありません。今から考えれば、『源氏物語』の作者であることが偉大に思えますが、当時の物語作家にそんな高い評価は与えられていませんでした。わかっていることといえば、父が藤原為時だということです。その為時も下級貴族ということで、生没年は未詳でした。母は藤原為信の娘ですが、本名はもちろん生没年もわかりません。この為信の娘は為時との間に一男二女を儲けています。二女ということから紫式部には姉がいたようです。一男というのが惟規ですが、やはり下級貴族ということで紫式部の兄なのか弟なのかもわかっていません。古語で「いもうと」というのは、男性から異性の姉妹を指す言葉であり、姉でも妹でもかまいません(「せうと」はその対)。仮に母が惟規を出産した後に亡くなったとしたら、弟ということになります。
ところで紫式部の生涯に、大河ドラマの主人公としてのドラマ性はあるのでしょうか。女性ということで政治権力はないし、何か大きな事件に絡んでいるわけでもありません。そこに一抹の不安を感じます(「八重の桜」を思い出しました)。その紫式部のわずかな人生を覗き見るものとして、まず『紫式部集』があげられます。これにしても自選か多選かによって価値は変わってきます。また歌集という点、ある程度の年齢にならないと歌は詠めないので、そこに誕生や幼少期の記録は残されていません。最初の歌は百人一首にもとられている「めぐりあひて」でした。
歌集で一番役に立っているのは、越前へ下向した折の歌が含まれていることでしょう。為時が越前守に任命されたのは長徳二年(996年)のことです。ただし父と一緒に越前へ下向したのか、父とは別に下向したのかもわかりません。また越前での生活は必ずしも満足できるものではなかったようで、紫式部は父を残して早々と京都へ戻りました。その理由として、うまい具合に藤原宣孝との結婚説が説かれています。宣孝というは父の上司で、しかも父と同年代なので、紫式部とは20歳ほども年齢差があります。しかも宣孝には正妻も子供もいました。その翌年、娘賢子が誕生しており、それなりに幸せな結婚生活を過ごしていたと想像されています。しかし結婚生活は長くは続きませんでした。長保三年(1001年)、宣孝は当時流行していた疫病にかかってあっけなく亡くなってしまったからです。
その喪失感・悲哀を紛らわすために、物語の執筆を始めたと、『源氏物語』研究者は都合のいい解釈をしています。もっと前から物語を書いていても一向に構わないのですが、やはりドラマチックな展開が好まれているのでしょう。その紫式部の物語が女房間で人気を呼んだことで、その評判が藤原道長の耳にも入り、娘彰子の女房(あるいは倫子の女房)として出仕しないかとの要請があったと、これもあらまほしき解釈がなされています。物語の執筆は出仕した後も続けられました。また紫式部には新たな仕事も与えられています。ようやく彰子が懐妊したことで、その出産以降の記録係を命じられたのです。それが『紫式部日記』の執筆動機でした。これは清少納言の『枕草子』を意識してのことでしょう。
敦成親王の誕生は寛弘五年(1008年)10月12日です。その五十日の祝いが盛大に行われました。当然、その記録も克明に記されています。それが千年紀の根拠となった11月1日でした。ちょうどこの時期に『源氏物語』第一部の清書が行われ、一条天皇へ献上されています。ただしこの時『源氏物語』が完成したのではなく、まだ宇治十帖は影も形もありませんでした。千年紀はあくまで便宜的な途中経過だったのです。その日、藤原公任が紫式部の局を訪れ、「このわたりに若紫やさぶらふ」と声をかけたことで、『源氏物語』の作者が紫式部だと判明しました。あるいはこれによって、今まで「藤式部」とされていた女房名が、「紫式部」に変更されたともいわれています。紫式部という女房名自体、『源氏物語』と密接に関わっていたのです。その後も物語は書き続けられ、1015年頃にようやく完成したと考えられています。