🗓 2024年08月24日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

芭蕉は貞享元年(1684年)41歳の秋、江戸から伊勢に向けて出立しました。その折の記録が『野ざらし紀行』です。難所の一つである大井川は、終日の雨のために増水し、足止めにあったのかもしれません。その後に「馬上吟」として、

道の辺の木槿は馬に喰はれけり

とあります。これが大井川を渡る前なのか、それとも渡った後なのかもわかりません。少なくとも芭蕉は馬に乗っていたようです。

普通は次のように解説されています。芭蕉が馬に乗って道を進んでいると、道に沿って木槿が花を咲かせていました。木槿は秋の季語です。すると思いがけず馬がその花を食べたのです。芭蕉は馬の背にいますから、馬の首が木槿の方へ曲がったところまでしか見えません。しかし通り過ぎる時に確認すると、花がありませんでした。
 まさか人を載せて歩いている馬が、いきなり道端の木槿を食べるとは、芭蕉も思っていなかったのでしょう。芭蕉だけでなく、木槿にしても馬に食べられるとは思っていなかったはずです。それを芭蕉は「馬に喰はれけり」と表現(感情移入)しているのです。いわゆる迷惑の受け身ですね。芭蕉は木槿に同情しているのでしょうか。もちろんここに滑稽味を読む人がいてもおかしくありません。
 さてこの句について正岡子規は、俳論「芭蕉雑談」『正岡子規集』の中で、この句を酷評していました。
 ことさらに「木槿は」といひ「喰はれ」と受動詞を用たる處は、重きを木槿に置きて多少の理窟を示したる者と見るべし。〈中略〉此句が何故に人口に膾炙せしかは殆ど解すべからずといへども、我考にては教訓の詩歌は文学者以外の俗人間に伝播して過分の称賛を受くる事間々これ有る習ひなれば、此句も其種類なるべしと思はる。且つ譬喩の俳句を以て教訓に応用したるは恐らく此句が嚆矢なるべければ一層伝称せられし者ならん。要するにこの句は、文学上最下等に位する者なり。
 子規にとって理屈は評価できなかったのでしょう。それに対して山本健吉の『芭蕉その鑑賞と批評』では、

芭蕉は馬の上で、道ばたの白い木槿の花を目にした。木槿が咲いているなと思いながら、その際立った色彩の白をみつめるともなくみつめながら、段々近づいて行く。眼前ま近になって、その白が芭蕉の網膜に、拡大の限度に達した瞬間、意識の外にあった馬の首が、横からひょいと芭蕉の視野に這入ってきて、木槿の花を喰ってしまった。芭蕉ははっと驚いて我にかえる。眼前の木槿の花がなくなったのである。〈中略〉この句の面白さは、単なる写生句としてでなく、馬上の芭蕉の軽い驚きが現されているからである。我にかえった後、「喰われちゃった」といった何気ない可笑しみが、芭蕉の胸にこみ上げて来るのである。木槿の花とは、可笑しなものを喰うやつだ!」

と、臨場感あふれる解説をしています。

この句には、もう一つの大きな問題があります。それは本当に馬が木槿を食べたかどうかということです。素人にはわかりませんが、植物の専門家の中には、木槿の樹皮には「木槿皮」、蕾には「木槿花」という生薬が含まれているので、動物はその苦さ・辛さを知っていて食べないというのです。
 そこで芭蕉は、馬が木槿を食べているところを目撃したのではなく、花のない木槿を見て、きっと馬にでも食べられたのだなと想像しているという解釈もあります。逆に木槿の花を馬に食べさせたところ、馬はパクパク食べたという実験の報告もあります。ただ、馬が普通に木槿を食べるのであれば、東海道はたくさんの馬が行き通うでしょうから、どこにでもある風景になってしまいかねません。
 この句は一筋縄ではいきそうもありませんね。木槿は和歌に詠まれないこと、俳句でも、馬に食われたなどと詠んだ人はいないことが前提条件でしょうか。その上で、普通は食べない木槿を馬が食べた驚き・衝撃を読み取るべきかもしれません。この句は案外斬新な詠みぶりだったのです。
 私など、木槿と芙蓉の区別もきちんとできないのですから、そんなことをいえた義理ではありません。もっとも木槿はアオイ科フヨウ属ですから、芙蓉と似ていて当然なのです。もう一つ、ハイビスカスも同属の花でした。そうなると花は一輪だけだったのか、それともたくさん咲いていた花の一つなのか、という新たな疑問が生じてきました。やっぱり俳句の鑑賞はやっかいですね。