🗓 2025年07月26日
タイトルは創学の年代順である。慶応4年(明治元年)慶応は有馬家(久留米藩)の屋敷を購入し「慶応義塾」を創設した。同志社は新島襄が明治8年(1875年)に同志社英学校を創立した。それから8年後の明治16年(1883年)に大隈重信が東京専門学校を設立した。3校はそれぞれ年号、山本覚馬命名の同志社、地名の早稲田とネーミングの根拠は違う。
大正12年(1913年)に30周年を迎えた早稲田は「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念とした早稲田大学教旨を大隈重信校閲の後、高らかに宣言した。その草案を作った中心人物の一人が浮田和民である。坪内逍遥が「早稲田の至宝」と呼んだ人物である。浮田和民は我々OBにも知名度は低いが大学経営では大隈重信の右腕であった。
実を言うと早稲田創学時にはこの浮田和民とともに同志社英学校の卒業生が綺羅星のごとくいたのである。
私が在学中は安部球場があった。授業の合間に時間つぶしに生協の横の道を通って野球部の練習を見に行った。その安部球場は「日本野球の父」「学生野球の父」と呼ばれた1899年から東京専門学校に勤めた安部磯雄から名づけられた。今では東伏見野球場が「安倍磯雄記念野球場」に改称されてその名を遺す。
そして同志社第3代総長になった横井時雄も早稲田で教鞭をとっていた。横井時雄の最初の妻みねは山本覚馬の2女である。戊辰戦後、みねは山本覚馬の生存が確認されるまで新島八重と常に生活を共にしていた。覚馬の先妻うらも一緒だったが母親は京都に行かなかった。
この横井時雄が福島県安積高校出身の世界的な歴史学者朝河貫一を早稲田で教えかつキリスト教の受洗をしたのである。朝河貫一は早稲田を明治28年(1895年)首席で卒業した。
その後大隈重信や徳富蘇峰や勝海舟の援助を受け米国イエール大学を卒業し、1932年イエール大学日本人初の教授となった。太平洋戦争の時に戦争回避のため親書を天皇に送るようルーズベルト大統領に働きかけた。2007年にイエール大学講師就任100年を記念してイエール大学構内に「朝河貫一庭園」が造られた。
このように早稲田草創期には同志社英学校の出身者たちが大いに活躍したのである。
これが慶応出身者だったら、今のライバル関係ができたか甚だ疑問である。遠く離れた京都の同志社だから良かった。三田の出身者たちが教鞭をとっていたら植民地扱いで独自の路線を歩めなかったのではないかと安堵する。
そして2025年の今年は同志社150年に当たる。同志社創立に深く関わった会津藩出身の山本覚馬・新島八重の生家の菩提寺は会津若松市慶山の大龍寺である。私が幹事長を務める新島八重顕彰会で毎年八重の命日6月14日に行われる顕彰祭に同志社本部のしかるべき人が参列するよう大学本部に2年前より働きかけていた。そして今年の6月八重が深く関わった同志社女子大学の前学長に参列頂いた。前夜の懇親会では、「都の西北」のように同志社で歌い継がれてきた「カレッジソング」(英語)を高らかに会津の夜に響かせていただいた。松本会長には会津稲門会を代表して参加して頂き、翌日の顕彰祭では会津稲門会長として焼香して頂いた。
毎年4月に同志社校友会福島県支部総会が会津若松教会で開催されている。八重顕彰会では昨年より懇親会へ招待を受けて参加している。今年は大学本部より副学長が参加されていた。何と副学長は早稲田理工学部卒であった。明治時代に同志社にお世話になった分を令和に副学長が恩返しをしているのだと皆さんの前で感謝した。
最後に豆知識として1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を福沢諭吉が国から払下げを受けたが金額は500円であった。同志社の今出川校地は元薩摩藩邸であったが山本覚馬が破格の500円で譲り渡した。慶応と同志社の校地はいずれも500円と同じである。とすると大隈重信が都の西北をなんぼで買ったか気になるところではある。
(文責:岩澤信千代)