🗓 2025年11月22日

吉海 直人

童謡「叱られて」は、大正9年4月に少女雑誌「少女号」に発表されました。作詞したのは清水かつら(男性です)で、作曲は弘田龍太郎です。弘田はこれ以外に『鯉のぼり』『浜千鳥』『金魚の昼寝』『雀の学校』『春よ来い』『靴が鳴る』『雨』『小諸なる古城のほとり』など有名な曲を多数作っています。このうちの『雀の学校』『靴が鳴る』の作詞は、やはり清水かつらが手掛けています。
 この歌は結構人気があって、2007年に文化庁と日本PTA全国協議会によって「日本の歌百選」の一曲に選定されました。なるほど曲調は、日本的な陰影が色濃く感じられるいい曲です。それに対して歌詞は、清水かつら自身の実体験が込められているとされていますが、それにしてもわからないことだらけです。できることならどういう設定なのか、清水かつら自身に尋ねてみたいくらいです。あるいはどうぞお好きなように解釈してくださいといわれるかもしれませんが。
 そもそも「叱られて」は一体誰に叱られたのでしょうか。というのも、叱られた後で町までお使いにやらされているからです。それが明るい昼間ならまだしも、「夕べさみしい」とあって、まもなくキツネがコンと鳴きそうな日の暮れる時刻です。それにもかかわらず、小さな子供を町まで買い物にやるというのは尋常ではありません。良識のある大人なら、そんな時刻に子供をお使いになどやりませんよね。そうなると、叱ったのは両親ではないように思えます。あるいは奉公先の主人か番頭さんでしょうか。清水かつらの生い立ちを調べると、継母に育てられているので、継子苛めが投影されているとも読めます。
 不可解なのは境遇だけではありません。お使いに行かされるのは「あの子」ですが、もう一人「この子は坊やを寝んねしな」とあって、子守をしている子がいます。この子守りは女の子の仕事でしょうか。それはさておき、「あの子」と「この子」は兄弟姉妹なのでしょうか、それともただの奉公人仲間なのでしょうか。また子守りしている「坊や」は主人筋の幼な子なのでしょうか、それとも「この子」の弟か妹なのでしょうか。
 この中では、お使いに行かされている「あの子」がやや年長のようにも思えますが、根拠はありません。また「村はずれ」にいるのは一人でしょうか二人でしょうか。子守りの子は一緒にお使いに行ったのでしょうか。それとも村はずれでお使いの帰りを待って、一緒に帰るのでしょうか。どうにもすっきりしません。
 二番の歌詞も曖昧です。「二人のお里」というのは、「あの子」と「この子」の二人でいいとして、その里が「あの山を越えて彼方の花の村」というのは、そこから二人は親元を離れて住み込みの奉公に出されているのでしょう。なんとなく貧しい農家の暮らしが想像されます。そうなると口減らしのために、やむをえず奉公に出されたことになります。「花見はいつのこと」というのは、当分の間休みはもらえず、いつになったら里に帰って花見ができるのだろうかということでしょうか。それとも前に実家で花見をしたのはいつだったかと過去を思い出しているのでしょうか。もっと深読みしたものもあります。花見は春の桜でしょうから、今は寒さ厳しい冬だけれど、早く春が訪れるのを待っているという解釈です。いかがでしょうか。
 また二番の歌詞に「口にはださねど目に涙」とありますね。誰に叱られたのかがわからないだけではなく、どのようなことをして叱られたのかも書かれていません。何か失敗して罰を与えられているのでしょうか。それとも日常的に叱られているのでしょうか。ただ叱られている側がこのように反応しているのは、本人にとって不本意・理不尽なことで叱られているからかもしれません。この涙は悔し涙なのでしょうか、それとも絶望の涙なのでしょうか。
 一説に、叱ったのは主人や番頭さんではなく、同じく奉公に来ている年長の先輩とする解釈もあります。これはいじめに近いものですよね。いずれにしても子供達にとって、奉公先での日々は辛く悲しいものでした。具体的なことはわからなくても、そういった雰囲気がわかればそれで充分なのかもしれません。みなさんはどのように考えますか。