🗓 2019年10月02日

ある芥川賞作家の死

 

福島民友新聞2019.10.2付

今日の新聞の訃報記事で、高校の同級生室井光弘君の死を知った。室井君とは高校生の時、同じクラスだった。担任のS先生は、室井君を大変かわいがった。S先生の担当教科は国語であり、S先生は当時から室井君の国語力を評価していたのかもしれない。私の家の蔵にあった古い書籍をS先生に見せ、その後室井君に貸したのはこの頃だ。

高校を卒業して、早稲田大学の構内で2,3度会った。一浪して早稲田の政経学部に入学したという。私たちが会った昭和49年ころといえば、東大入試が中止になった昭和45年から間もなくであり、学生運動が下火になりつつある頃である。しかし私が入学した48年頃は、有名な川口大三郎事件があった次の年にあたるので、まだ学内ではヘルメットに角材を持った学生たちがスクラムを組んで何かの示威行動をしていた。商学部は卒業生が寄付して建てた頑丈な建物だったので、早稲田を拠点とする過激派一派はそこに立て籠もった。そこを敵対する別の一派が鉄パイプを持って攻め立てるのを目撃した。鉄の扉は鉄パイプでは破れない。さながら戦国時代の城攻めをケガしないように遠くから眺めていた。
慶応の学生は、他大学の学生と違い、耳までかかるいわゆるバイクに乗るような頑丈なヘルメットを身に着けていて「やはり、慶応は違うな。」などと友人と話していた。(ヘルメットには大学名が書いてある)

私はあまり学校に行かなかった。その頃、親戚のつてで目白4丁目に住んでいたのだが、自宅を出て、目白駅に着くと「蔵王」というパチンコ屋に引っかかった。そこでは学習院大学の応援団長をしていた襟の高い学生服を着た高校同級生H君とよく会った。高田馬場駅に着くとそこには「宇宙会館」というパチンコ屋があった。そして、法学部に入る南門の前に「グリーン」という雀荘があった。門のところで同級生が私を待ち構えて、麻雀に誘う。3か所の鬼門を通らなければ授業に出席できないのであるから、当然教室にはいかず帰宅することが多かった。そんなわけで大学卒業後は「優」(9個)の数の少ないことを自慢するしかなかったのであるが、麻雀に一番私を誘ったK君が今一部企業の常務をしているのには、びっくりした。いつ勉強したのだ?「優」はとったのか?会社に入ってから努力したのか?

室井君に話は戻るが、しばらくして、また聞きで慶応大学の文学部に入り直したと聞いた。そして時間が経ち、社会人になってから、通勤電車で日経新聞を読んでいて彼が第111回の芥川賞を受賞したことを知った。その時、横浜支店の営業課長をしていて、出勤してそれを言ったのだが50人いた社員の反応はさっぱりだった。社員には「芥川賞」の意味がぴんと来なかったのかもしれない。急いで受賞作「おどるでく」を買いに書店へ行って読んだが、私には意味不明でさっぱりわからなかった。

時間のある時にパソコンで彼の名を検索した事があったが、彼の出した専門書の値段があり3万円であった。誰が買うのだろう?彼は大学の図書館勤めや大学教授などを歴任したようだが、印税ががっぽり入る流行作家にはならなかった。

2019年9月27日64歳で敗血症ショックのため死亡したと訃報にはある。
ネットの画像で彼の顔を見たが、少年時代の面影が十分に遺っていた。高校時代の1年間の短い付き合いであり、大隈重信像前で会って以来は接点もなく心の琴線に触れることはなかったが、ご冥福を祈る。

(文責:岩澤信千代)