🗓 2019年11月29日
会津三十三観音参りと飯豊山
古来、会津では飯豊山信仰があり、男子で15歳までに登頂しなかったものは一人前として認めてもらえなかった。その為、必ずと言ってよいほど「御山駆け」が行われていたのである。蔵の押し入れを整理していたら叔父の登山一式が出てきた。修験者の着るような白い服と足袋そして茶碗である。泊りがけでないと2000m級の山には登れない。おそらく茶碗があるということは米も背負って登ったのだろう。おかずまでは想像できないが。持ち物には叔父の名前が書いてあったので所有者がすぐにわかった。おそらく3才下の私の父は太平洋戦争の時期にあたり登っていないだろう。伯父は数年前他界したが、存命中にそれをお返ししたので子供の頃飯豊登山した時に着た登山装束を見ただろうと思う。
私も父のおかげで中学生の時に村の青年団と共に古来の儀式であった登山をすることができた。子供会の役員をやっていた父親が青年団を説得し合同の企画とした。
今の私の体力ではおそらく飯豊登山は、無理だろう。いい時期に登ったと思っている。まさに人生一度のワンチャンスだった。高い山の登山は、3年前に富士山登山(雨の為8合目で登頂は断念)をしたのが最後かもしれない。
男子の大人になるための通過儀礼が飯豊登山とするならば女子にとっては「会津三十三観音巡り」は最重要な行事であった。飯豊信仰はどちらかというと山岳信仰であるが
会津藩祖、名君保科正之が定めた「会津三十三観音巡り」はどちらかというと仏教的色彩が強い。いろいろな形に変わる観音菩薩の巡礼の旅である。これは主に女性が参加する。この巡礼の旅に一緒に行ったメンバーは「仲間っこ」と呼び一生涯冠婚葬祭を共にする。わずかな期間でも家事・農作業から解放されることは労働に明け暮れた農業中心の村落共同体の女性においてはひと時の安寧をもたらしてくれる行事でもあった。「会津三十三観音巡り」は今「日本遺産」である。
男には「お伊勢参り」の行事もあったが、神仏に関わらず宗教信仰は古来より長い間地域のコミュニケーションに役立ってきた。今は飯豊山も女人禁制が解かれ、女性も登れるが高野山をはじめ長い間の女人禁制が解かれて民主的になった。だが振り返ると現代はコミュニーケーションの密度を判断基準にするとどうだろう?京都に住んでいた新島八重と札幌に住んでいた日向ユキ(八重の生家と道路一つ違いでごく近所)の生涯変わらぬ交情などを考えると郷里を同じくするものしか分かりあえない部分の希薄化が、今私たちの住んでいる時代なのではないか。
(文責:岩澤信千代)