🗓 2020年02月07日

新島八重と山東直砥なおと

 
 中井けやき先生からご恵贈頂いた「明治の一郎 山東直砥」を読了した。
山東直砥は若い頃高野山で修業して、その後基督教に転じた異色の宗教経歴を持っている。
山東直砥は坂本龍馬・後藤象二郎・陸奥宗光など幅広く交流があり、実業家・奉仕家として活躍した。

山本覚馬の「管見」を口述筆記した西会津町出身の野沢鶏一(旧名斎藤九八郎、日本で初めて、アダム・スミスの『国富論』を出版した石川暎作の従兄)の義兄星亨(衆議院議長)と深く交わった。野口英世のやけどの手を手術した渡辺かなえの父渡辺思斎は西会津町で「研畿堂」という私塾を開いていたが野沢鶏一はそこの門人であった。若い頃、医学を極めんとし長崎に向かったが、途中「京都でも勉強はできる」と山本覚馬に言われ、覚馬の洋学塾で学んだ。鳥羽伏見の戦いが始まり、覚馬と共に薩摩藩邸に幽閉された。
その後弁護士となり米国のイエール大学で法律を学び、銀座で弁護士事務所を開業した。

本書を読み進んでいくと山東直砥は「家庭学校」の留岡幸助との深い親交があった。留岡は2011年公開の映画「大地の詩・・留岡幸助物語」の主人公である。家庭学校は感化院(現在の児童自立支援施設)であり当時東京巣鴨にあった。但し、映画の背景は北海道家庭学校。

大正10年新島八重77歳の時は会津若松に来た。その時私の曽祖父岩澤庄伍が完成間際で建設中の若松公会堂を案内したことが、曽祖父宛八重書簡でわかる。その後八重は群馬県安中市の安中教会を訪れたことが地元の上毛新聞の記事に掲載された。また「山中湖文学の森」にある徳富蘇峰館所蔵の八重書簡に安中から巣鴨の家庭学校に向かい長逗留したことが書かれている。家庭学校には養女初子の夫広津友信 が勤めていた関係で八重はたびたび訪れている。早世してしまったがその頃は元気だった孫に会うことを無上の楽しみとしていた。広津家に滞在し、新島襄の一字を取った孫襄次の成長を楽しみにしていたのである。曾祖父宛のトウモロコシ・茎たちの種の礼状の日付は9月22日である。会津・米沢・安中・巣鴨と長い旅から京都へ帰った頃に礼状をしたためたのである。

留岡幸助は1864年岡山県生まれで同志社神学校を卒業し、キリスト教牧師として伝道していたが思うところあって社会福祉事業を志し、不良少年の厚生事業を行った。その家庭学校のよき理解者・支援者が山東直砥であった。本書には明治34年基督降誕祭に山東直砥と3女の夫児玉亮太郎とが一緒に出席している。

留岡幸助と八重の関係・留岡幸助と山東直砥の関係を考えると八重と山東直砥は面識があり、キリスト教を通したお互いの「奉仕の精神」を共感していたのではと確信する。

(文責:岩澤信千代)