🗓 2020年10月19日

「江戸三百藩 通知表」宝島社発行
 私には習性がある。特にテレビ番組の中に刑事物などがないとき、時間がぽっかり空く。そうゆうときには風呂に入り寝床に入り、目には悪いと思うのだが横になって本を読む。そのうちにいつの間にか眠る。昨日、知識渇望が出て、久しぶりに書店を覗いた。
 そこに行って買ってきた本を読んでいて愕然とした。

会津人として尊敬していた保科正之と松平容保が悪大名として全国300藩のワースト10にノミネートされていたからである。善悪は別として紹介しよう。

「江戸三百藩 通知表」宝島社発行
 宝島社発行の「江戸三百藩 通知表」にある。「天下泰平期編」と「幕末期編」に分かれ名君と暗君ベスト&ワースト10が記載されている。まず「天下泰平期」の名君ベスト1は米沢藩の上杉鷹山である。鷹山はアメリカのケネデイ大統領も称賛していたほどの人物で日本人なら誰も異論はなかろう。問題は暗君ベスト5位が保科正之であることである。コメント(選定理由)を抜粋しよう。

「家臣、親戚の利益を図り迷惑千万、また男女差別など封建的身分秩序を過度に追求した。」
当たらずとも遠からずのコメントであると変に納得させられる。確かに保科正之の藩政は信州高遠から引き連れてきた家来を重用した。山形から23万石で入封したときに召し抱えた旧鳥居家家臣(左京衆)もいるが「高遠以来」の家来を重用した。会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないとわずかの例外を除いてその家老職に就くことはできなかった。また高遠藩で保科家とつながる血縁のものを重用した。このコメントを見ると保科正之を大河ドラマの主人公にしようと活動している高遠町や会津若松の人々にとっては残念に思うかもしれない。私は個人的には保科正之は主人公にはなりえないと思っている。
何故なら正之は徳川家の血筋ということで大藩を任されたものであり、戦で勝ち取った大名ではないからである。現在の「麒麟が来る」の時代は、戦国大名が武力でその地位を築いた時代なので戦闘場面がある。もちろん幕末の「八重の桜」には戦闘場面が多くあった。殉死の禁止とか火事で焼け出された江戸城本丸の再建を拒んだとか保科正之が江戸幕府安定に貢献したことは誰も異論がないだろう。しかし、いかんせん領主の座を戦闘で取ったものではないのでないからである。男女差別を助長したとあるがこれは「家訓」の「女子の言聞くべからず」を言っているのだろうか。正之の正室お万の方の起こした事件を著者は知っているのだろうか。正之が藩政に置いて女性を冷遇したとの話を私は聞いたことがない。

「江戸三百藩 通知表」宝島社発行
 さて「幕末期」のワースト1位が松平容保である。コメント(選定理由)を転記する。
「孝明天皇の佐幕攘夷に迎合して混乱の原因。恭順が不十分で戊辰戦争を引き起こす。」
「真面目さが過ぎて会津藩を悲劇に追い込む」興味深いのでコメント全文を下記に載せる。
「容保が京都守護職として期待されたのは、開国を孝明天皇に承知させることだった。しかし天皇の攘夷論に中途半端に迎合、佐幕開国と尊王攘夷が対立するなかで佐幕攘夷の立場をとって国政を大混乱させた。仙台藩など出した穏当な恭順案を受け入れるべきであったが拒否して戊辰戦争が起き、領民は大迷惑をこうむる。個人はとても優秀だがまとまりが悪かった。会津藩士を束ねるためには強力なリーダーシップが必要であったが、優柔不断なため悲劇を招いた。」

さて皆さんどう思われますか。殿様が悪く言われるのは不満ですが当たらずとも遠からずの解説でしょう。
 我々は生まれ出ずる時に両親を選ぶことはできない。両親とも会津出身であるとか父方が会津出身だとか人生の一場面で話題になるときがある。会津人にとっては磐梯山(民謡を含め)があり、誇るべき歴史がある。戊辰戦争を戦った会津藩士の子孫でなくても生まれは会津である。戊辰会津戦争のような特異な歴史がある土地は日本全国他にはない。豊かな自然と歴史があることの幸せを我々は深く心にとどめ、何らかの社会貢献できることを探していこう。悲惨な歴史があったことにより観光地として恩恵を受けてきた我々会津人に何ができるか。それは個々人の心の中にあると思う。

(文責:岩澤信千代)