🗓 2023年02月13日
中島孝之氏の「素顔のゴルバチョフ」を読んだ。今のウクライナ戦争はゴルバチョフの「ペレストロイカ」に行きつくのではと考えられる。ゴルバチョフ(愛称ゴルビー)はご存じのように米国レーガン大統領と粘り強く交渉し核軍縮を成功させた。外国ではサッチャー英首相のようにその手腕が高く評価されているが、ロシア国内では評価が分かれるという。一番の原因が経済が振るわなく国民の窮乏を救えなかったのが大きな要因である。プーチンの方がロシアの国力を増大させたのである。しかし、今は蓄積した国力を消耗させているのだが。
1989年から1990年までソビエト連邦最高会議議長、1990年から1991年までソビエト連邦大統領を務めた。その時に一党独裁の共産主義の最高権力者が独断で対外的な戦争ができないように制度化したはずだった。しかしプーチンは行っている。最高会議でプーチンの演説に議員たちがすべて起立しスタンデイングオベーションを映像で皆さんも見ているだろう。
プーチンがKGB職員としてドイツにいた時にベルリンの壁は崩壊した。それが瞬く間に衛星国であった東欧諸国の民主化を誘発した。もはやNATOがロシアの国境まで迫ってきたのである。隣国ウクライナがEU、NATO加盟に進んでいけばロシア領土の危機とプーチンは悪夢にさいなまされたのであろう。ゴルビーでさえ1991年2月のリトアニア独立革命(血の日曜日事件)にはソビエト連邦軍・治安警察の武力弾圧を承認せざるをえなかった。2014年のロシアのクリミア侵攻を擁護し、日和見主義を批判された。
エリツインがロシア大統領になる時に横にいたゴルバチョフに向かって「お前はもういらない」と悪態をついた映像は全世界に流れた。
日本には何回も訪れ、黒柳徹子の対談にも出たことがある。一貫して北方領土返還には否定的であった。日本大学・明治大学・創価大学の名誉博士にもなった。
ゴルビーは昨年2023年の8月31日逝去した。安倍晋三のように国葬にはならなかったが元国家元首にプーチンは深い哀悼の念を表明し遺族や友人に弔電を送った。告別式は9月3日にモスクワの労働組合会館の「円柱の間」でロシア大統領府儀典局主催で行われて、女子修道院内に埋葬された。レーニン以来の革命家と言われたゴルビーの評価はいまだ定まらない。
最後にゴルビーが設立したゴルバチョフ財団は長い間世界平和統一
家庭連合(統一教会)の資金援助で運営されてきた。統一教会についてはプーチンは法律により布教活動を制限したので日本と違い布教活動は出来なかった。
(文責:岩澤信千代)