🗓 2024年07月30日
月刊誌「文芸春秋」に同志社出身の保坂正康が「日本の地下水脈」を連載している。ここ数号「石橋湛山」が連載されている。保坂氏は石橋湛山が同志社とつながることを知っているかどうか文脈からは出てこない。おそらく知らないであろう。
石橋湛山が山梨の県立山梨県第一中学校(現甲府第一高校)に在学していた時の校長が大島正健(まさたけ)であった。札幌農学校の第一期生である。二期生の内村鑑三や新渡戸稲造に強い影響を与えた人である。その長男正満(まさみつ)を子供がいない新島襄・八重夫妻はことのほかかわいがった。新島夫妻と散歩している満ぼうが歩かなくなってしまった。それで新島襄は満坊を背負ったら機嫌がよくなった。大きくなり新島襄の自宅を訪ねたがすでに新島襄は亡くなっていた。オルガンの上に襄の遺影が飾られていたことなどが文章で残されていた。その正満は長じて植物学者となった。
大島正健は札幌農学校の教諭であったが、事情があり各地の学校を巡った。同志社普通学校の教授にもなった。大島が赴任していた時に山梨県第一中学校は相当酷かった。今でいう学級崩壊である。大島着任の際、生徒らは一斉に講堂の床を踏み鳴らして手荒い歓待を行なった。大島は 「静かにしろ、ヤマザルども ! 」 と一喝して静めたという。この 「山猿」 たちを、大島は紳士として育てようとした。 (ウイキぺデイア)
この荒くれ中学生(今は高校生)を感化クラークのBoys, be ambitious!’の精神を粘り強く説いた。それでBoys, be ambitious!が甲府第一高校の校是となった。今石橋湛山が揮毫したその碑が残るという。石橋湛山は留年を繰り返したおかげで大島の薫陶を受けることができた。石橋湛山の精神の根幹部分に大島正健・クラークの精神が根付いているのだ。
残念ながらこの部分に保坂正康は一行も触れていない。保坂さんの知り合いの方がいればこの事を教えてあげてください。
(文責:岩澤信千代)