🗓 2024年11月24日

 今「歴史街道」を読んでいる。「レイテ沖海戦・80年目の検証」の目次が気になったからである。帝国海軍はこの戦いで初めて神風特攻隊を編成した。はじめ、海軍航空本部総務部長大西瀧次郎中将は城英一郎大佐のこの構想に反対していた。海軍では死ぬ覚悟をもって任務にあたるも武運に恵まれなければ帰還できる「決死」が軍人の心構えとして広まっていた。

 一方で特攻隊は必ず戦死する「必死」を前提としており、大西は海軍の伝統的な考えに反すると反対していたのである。昭和19年6月のマリアナ沖海戦で大敗したことから、再度、城は大西に提案、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将などにも具申した。当時パイロットは2か月ほど前線で勤務すれば生存率が高まると言われていた。が、訓練する飛行機も燃料もない状態では訓練も間に合わない。大西も未熟なパイロットを生かす苦肉の策として特攻隊に傾いていった。

 昭和19年10月5日大西中将は第一航空艦隊司令長官に内定。フイリピンに赴任する前に米内光政大将・及川古志郎大将に挨拶に行った。及川軍令部長は「特攻の指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。悪代官と結託する越後屋そのものだ。

 そして「わだつみの声」につながる。

「天皇陛下万歳」と言って突撃した兵士は少ない。ほとんどは「お母さん」と言って死んでいった。親孝行ができなくなるのを悔やんで死んでいったのである。そしてこの「神風」が中近東の紛争地域に根付いてしまったのも不運である。

(文責:岩澤信千代)