2025年01月30日
吉海先生から送られた「美徳以為飾」(為下村幸太郎様)八重の書の写真がヒントをくれました。ウイキぺデイアを見たら、浮かび上がってきました。
陸軍大将柴五郎(柴四朗の弟)の「ある明治人の記録・・・会津人柴五郎の遺書」を編纂したのが石光真人です。
下村幸太郎(同志社6代総長)の従兄に軍人石光真清・真臣がいます。浮田和民(早稲田の至宝)も従兄。
下村幸太郎の叔父が野田 豁通(青森県知事)野田のおかげで斗南にいた柴五郎は勉強ができ軍人になれました。
したがって柴五郎の斗南の苦難(犬の肉を食べたとか)が石光真人によって遺書の形で残されたのです。
石光家は「真」が通字です。熊本藩士(野田 豁通)と会津藩士(柴五郎)のつながりがあり、柴五郎の経験談が石光真人によって書かれる必然性があったのです。
私にとっては大発見です。長い間、柴五郎の遺書が熊本の石光によって書かれたのが疑問だったのです。大恩人野田 豁通と石光真人が親戚関係があったからこそ遺書の形で残ったのです。石光真人が文筆に関わる新聞記者だったのも幸運でした。会津藩挙藩流刑後の地斗南での凄惨極まる苦労を知る最高の資料を残したのです。
柴五郎の兄柴太一郎は京都守護職公用人でした。当然覚馬と同僚です。
川崎尚之助と柴太一郎は斗南藩の外人からの訴訟を一緒に受けました。
下村→石光→柴五郎→太一郎→覚馬・川崎尚之助とつながりました。
石光真清の息子が真人(東京日日新聞記者)です。
(文責:岩澤信千代)