🗓 2025年09月01日

百歩譲って高見ふさの口伝があったとしよう。会津人群像の寄稿者は口伝した一族の戸籍迄提示しているがあまり意味がない。問題は口伝の中身である。①頼三が「さださあ」と呼んでいた。サダのつく名前はたくさんある。貞義でも貞光でも多数考えられる。なぜそれが貞吉になるのか。②「会津訛り」があった。遠方の長州人が会津訛りを識別するのは不可能だ。現に栃木県北部の人々が話す言葉は会津訛りに近い。長州人が「訛り」で会津を特定するのはほぼ不可能に近い。

「サダさあ」が飯沼貞吉と結びつけるのは初めから無理があるのだ。すなわち関係者の戸籍など何の意味もないことなのです。

死体埋葬についても白河などの他所の例は全く意味をなさないのです。会津の進駐軍(軍務局)が新政府のどの部署からの命令系統で動いていたかの問題です。新政府ができたばかりに今のように中央官庁から一律の通達がいっていたとは思われません。だから他所の埋葬の実例は全く意味を成しません。中央政府から会津の軍務局へ指示命令系統がどのようになっていたかをまず検証すべきです。