🗓 2022年01月13日

中井けやき

    興味の赴くまま色々な講座に通っていた四十代、もっといろいろ知りたい、勉強してみたいと大学進学を思い立った。そして、通学に便利なようにパート先と近い東京飯田橋の法政大学通信教育部文学部史学科に入学した。
    21世紀令和4年、女子の社会進出は充分でない分野もあるが、昔を思えばよほどいい。それこそ新島八重が活躍した幕末明治とは比べものにならないほど女子に門戸が開かれている。物好きな主婦が大学生になっても不思議はない。

    さて、文系のレポートや試験、読み書きは好きだから何とかなるとして、英語が心配。そこで、パート先の銀行員に宿題の長文読解、聞き取りなど助けてもらった。
    英語のスクーリングは体育(卓球)授業で知り合った男子に助けられた。思わぬところでママさん卓球が役だった。その彼も4年で卒業、卒業パーテイで互いを祝福した日が懐かしい。
    思えば、恩師に恵まれ大学や職場でも若い人と仲良くなった4年間、年齢に関係なく青春だった。主婦・パート・学生、三足の草鞋を履き忙しかったがほんとうに愉しかった。
    その4年間があって、『明治の兄弟    柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』を出版することができた。
    『明治の兄弟    柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』は、卒業論文<柴五郎とその時代>が基になっている。

    卒論について。
    テーマを決めると史資料にあたるのはもちろん、主人公や関係人物の足跡を辿るのが大切と考えた。そして、まず会津を訪れることにしたが、一人旅の経験がない。それに車の免許もない。それで、娘が同行してくれることになった。
    もう30年昔、JR磐越西線・会津駅で下車、駅前のレンタカー店で車を借りる。そのとき、行く先を訪ねられ、会津若松城・恵林寺・白虎隊記念館・博物館・古書店と言うと、店の人が「娘さんの卒論ですか?」すると娘がすまして「ハイ」。
    店外に出るなり母娘で大笑い。母親の卒論のため娘が付き添うなんて誰も思わない。

    そもそも柴五郎を知るきっかけは『ある明治人の記録    会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著)である。この本は今なお再版され20版をこえているかもしれない。
    ともあれ涙ながらに読んだこの中公新書、それまでの明治維新観がひっくり返った。歴史は勝者が書く。

    さて、『ある明治人の記録』は柴五郎の少年時代で終わっており、いつしか忘れていた。ところが、『日露戦争を演出した男モリソン』上・下(新潮文庫)に、勇敢でかっこいい柴五郎が登場している。あの、柴五郎だろうか?
    そう、その通りだった。「ある明治人」と「モリソン」の二書で、柴五郎にすっかり嵌まってしまった。以後、資料調べに夢中になった。地道な作業だが、判るって面白い。
    それに何より、卒論の担当教授、安岡昭男先生はゼミ生や院生と区別することなく親切に面倒をみてくださった。それも力になった。
    防衛研究所図書館・外交史料館・偕行社図書館など、資料のある場所はもちろんのこと研究者・専門家も紹介してくださった。
    そのおかげで、柴五郎の諜報報告、英国の戴冠式出席の小松宮の生の史料など閲覧、得るところがあった。活字と違い、生の史料をみると色々なことが判る。

    たとえば、柴五郎の諜報報告をみると、字体がまちまち。それを見て諜報は電報や電信で来る、当たり前のことに気づいた。暗号を読解し文字にする担当者により字体が違って当然。柴五郎の字と勘違いして悩んだ自分に苦笑い。
    ちなみに、柴五郎の少年時代は戊辰戦争さ中、学問をする時間がなかった。ところが、陸軍仕官学校ではフランス語の作文を褒められ、外国語が堪能だった。
    義和団事変では軍事的な活躍もさることながら、語学を活かし八ヵ国の人々をよく纏め導いた。五郎の欧文の筆記体をみたが、きれいで素敵だった。

    ともあれ、卒論は無事出来上がり、満足したがなにか寂しい。
    柴五郎はもちろん、柴太一郎・東海散士柴四朗それぞれ素晴らしい。さらに、故郷で父を見守り、家族に尽くした柴五三郎も好ましい。なんとか兄弟みんなを紹介したい。このまま物語をしまい込んでしまうのは惜しい。
    そこで卒業後ではあるが、安岡先生をお訪ねして相談すると、「見てあげますよ」と背中を押してくださった。そればかりか、各地の学芸員、母校の教授になった教え子たちを紹介していただいた。その人たちと教授が亡くなられた今も交流あり感謝している。

    さて、「明治の兄弟」に取りかかったもののプロではなし、原稿を頼まれた訳ではないからのんびり。でも資料は綿密に、柴兄弟の足跡をたどり北海道から九州まで旅した。
    今度は夫がつきあってくれた。京都へ同行してくれた友人もいる。変わった妻・母をもつ家族はいい迷惑だが、笑って好きにさせてくれ感謝している。
    それやこれや十年、やっと『明治の兄弟    柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』ができあがった。
    次に、読んでもらえるように“けやきのブログ”を始めた。記事数700弱。
    今では、ブログが生き甲斐になっているが、柴五郎のお陰、柴五郎と出会って本当に良かった。素晴らしい人物との出会いは、時を超えて繋がり人を励ます。
    おそらく、戊辰の困難を耐えた先祖を想い、今を懸命に生きる会津人も同じかもしれない。

2022.1.12