🗓 2021年06月19日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

 日本語の中には意外に使い分けが難しいものがあります。たとえば「いい」と「よい」(良)・「いう」と「ゆう」(言)・「いく」と「ゆく」(行)などがあげられます。これは「い」(ア行)と発音するのが正しいのか、「よ」「ゆ」(ヤ行)と発音するのが正しいのかということです。もちろんどちらかが間違っているわけではありません。両方とも正しいのです。そこで口語と文語の違い、あるいは現代語と文語の違いなどと説明されることが多いようです。
 日本語教育の現場では、これをどのように教えているのでしょうか。わからない時に私は、過去に遡って考えるようにしています。今回は司馬遼太郎の作品を例に出してみましょう。有名な『龍馬が行く』はいかがですか。この場合は作品名(作歌の好み)ですから、どちらかが正しくてどちらかは間違っていることになります。実はこの作品のタイトルは『龍馬がゆく』と平仮名書きになっているので、最初から誤解の生じようはありませんでした。
 では次に『街道を行く』はどうでしょうか。ご承知のようにこれも司馬遼太郎の作品です。司馬が週刊朝日に長く連載した人気紀行文ですから、『龍馬がゆく』と同じくタイトルは『街道をゆく』と仮名表記になっていました。司馬は自作に「ゆく」を選択していたのです。そういえば小林亜星の「どこまでも行こう」という曲も、やはり「ゆこう」でした。またNHKの大晦日の長寿番組「行く年来る年」も、平仮名で「ゆく年くる年」となっています。それに対して「学校へ行こう」という民放のテレビ番組は、「いこう」と読まれていました。これはやはりくだけた言い方だからでしょうか。JR東海の「そうだ京都、行こう」というキャッチフレーズも「いこう」でした。
 もう少し遡って「行く春や鳥啼き魚の目は泪」「行く春を近江の人と惜しみける(り)」という芭蕉の俳句はいかがでしょうか。これはともに「ゆく」と読ませています。そうなると「いく」は口語というかくだけた言い方で、「ゆく」は文語というかあらたまった言い方、もっといえば文章語・文学的表現といえそうですね。
 では「ゆく」が古くて「いく」が新しいのかというと、必ずしもそうとはいえません。何故なら、両方とも既に『万葉集』に使用例があるからです。しかもやっかいなことに大伴家持の、

我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつも行かむ置きて行かば惜し(3990番)

には二つの読みが同居しています。最初の「行かむ」は万葉仮名で「由可牟」とあるので「ゆかむ」と読みます。次の「行かば」は「伊加婆」なので「いかば」と読まざるをえません。果たして家持は両者を使い分けていたのでしょうか。

もっとも用例数からすれば、『万葉集』では圧倒的に「ゆく」が多いので、「ゆく」が優勢であることは否定できません。そのため和歌(韻文)では「ゆく」が用いられるという説明がなされるわけです。ただし『伊勢物語』では「ゆく」と「いく」がほぼ同数用いられています。第4段では「ゆきとぶらひけるを」「人のいき通ふべき所」とあり、第九段でも「ゆきけり」「いきけり」と同じ段の中で併用されているのです。散文では「いく」も負けていないようです。
 では『源氏物語』ではどうでしょうか。有名な桐壺更衣の、

限りとて別るる道の恋しきにいかまほしきは命なりけり(桐壺巻)

では、歌であるにもかかわらず「いく」が使われています。もっともこの場合は『万葉集』とは違って、「いく」が「行く」と「生きる」の掛詞となっており、そのため「ゆく」ではなく「いく」が選ばれていると説明できます。それは小式部内侍の「大江山」歌も同様で、「生野」に「行く」が掛けられているので「いく」と読むことになります。掛詞の技法があえて「いく」を選択しているわけです。

もちろん現代では「いく」が優勢になっています。明治以降、国の方針で小学校の教科書に「いく」が選ばれたことも大きいかもしれません。それもあって「いった」「いって」とはいいますが、「ゆった」「ゆって」とはいいいません。要するに促音便では「いく」が優勢なのです。大きな時代的変遷としては、「ゆく」から「いく」に移行しているといえます。それでも「行方」とか「更け行く」(連語)などでは、「ゆく」とはいっても「いく」とはいわないようです。
 ひょっとするとこれは方言の名残なのかもしれません。というのも「いい」には「ええ」、「よかった」には「いかった」「えかった」が残っているからです。ただし「潔い」は「いさぎいい」とはいいません。