🗓 2022年06月04日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

京都に「八ツ橋」という有名な銘菓があります。今回はその「八ツ橋」にまつわるお話です。まず「八ツ橋」の由来は御存じでしょうか。調べてみたところ、説が二つに分かれていることがわかりました。みなさんがよく知っているのは古典に基づくもの、つまり『伊勢物語』第九段「東下り章段」に出てくる「八橋」を起源として、橋板に模した煎餅を作ったという説だと思います。
 ただしこれだと起源は三河の国(愛知県知立市)になるので、京都との距離が問題になります。そのため三河の無量寿寺の僧から製法を教わり、京都で販売したという創業神話も伝えられています。もちろん『伊勢物語』にしても謡曲『杜若』にしても京都の文学ですから、京都の銘菓として販売されても違和感はありません。光琳の「燕子花かきつばた図屏風」や「八ツ橋図屏風」・「八橋蒔絵螺鈿らでん硯箱」なども作られているのですから、『伊勢物語』由来というだけで立派な京都銘菓です。
 ただし『伊勢物語』自体は虚構ですから、本当に三河に杜若と八橋があったのかどうかは疑問です。というのも、『伊勢物語』を慕って現地にいった人の証言が否定的だからです。例えば『更級日記』には、「橋は名のみして橋のかたもなく」とあります。また『問はずがたり』にも「八橋といふ所に着きたれども、水行く川もなし。橋もみえぬ」とあります。同様のことは『俊頼髄脳』・『東関紀行』にもあり、誰一人八橋を見た人はありませんでした。杜若かきつばたにしても、連歌師里村紹巴じょうはや茶人小堀遠州はなかったと証言しています。あるいは観光ブームが起こる江戸時代以降、八橋と杜若が再現・整備されたのかもしれません。
 そこで京都で探してみたところ、『蜻蛉日記』天延2年条に、

 ものいひつぐ人あり。八橋のほどにやありけん。

とあって、これは賀茂神社の御手洗川みたらしがわにあった八橋とされています。これなら京都で問題ありませんね。

それとは別に、有名な筝曲(八橋流)の八橋検校けんぎょうが貞享2年(1685年)に亡くなった後、その遺徳を偲ぶために筝の形を模したニッキ入りの堅焼き煎餅が作られ、検校の墓(常光院)がある黒谷の茶店で供せられたのが「八ツ橋」だとする起源説もあります。要するに『伊勢物語』起源と八橋検校起源の二説が存するのです。
 現在、京都には「八ツ橋」を製造販売する京都八ツ橋商工業協同組合があり、そこに14の業者が登録しています。有名な本家西尾八ツ橋、聖護院八ツ橋、井筒八ツ橋などですが、実はそれらの店の創業説話が二つに分かれているのです。『伊勢物語』起源をとるのが西尾八ツ橋で、八橋検校説をとるのが聖護院八ツ橋、井筒八ツ橋などです。ただし最近は、西尾八ツ橋も八橋検校説に傾いて、創業を元禄2年にしているようです。ようするに二説を融合しているのです。
 もっとも「八ツ橋」が京都銘菓として有名になったのは、明治10年に鉄道が開通した際、西尾松太郎が駅で販売を始めてからだとされています。それ以前の資料は皆無に近いのです。かろうじて熊野神社には八ツ橋屋為治郎(西尾の先祖)が奉納した絵馬が残っているくらいです。
 松太郎の子・為治は、世界博覧会に「八ツ橋」を出品して銀賞を受賞するなど、「八ツ橋」の名を全国に広めました。現在のような反りのある「八ツ橋」は、為治によって改良されたものともいわれています。そのため為治は「八ツ橋」中興の祖として讃えられており、熊野神社に銅像が建立されています。
 ということで、「八ツ橋」は古くから西尾家が商っていたことがわかります。多くの店はこの西尾から分かれているのです。聖護院八ツ橋にしても、もとは西尾為治が大正15年に立ち上げたものでした。ところが昭和五年に倒産し、代わって専務だった鈴鹿太郎が経営権を獲得し、製造販売を続けました。この鈴鹿太郎は聖護院代表鈴鹿且久の祖父に当たります。
 一方、為治の息子為一は、昭和22年に「八ツ橋」の製造販売を再開しました。最初社名を本家聖護院西尾としましたが、聖護院八ツ橋側から使用差し止めの提訴があったので、聖護院を削除して本家西尾八ツ橋としています。また次男の為忠は八ツ橋西尾為忠商店を、三男の西村源太郎は本家八ツ橋を設立しています。
 こういった「八ツ橋」を製造販売する会社は、商品に自社の起源を紹介しています。八ツ橋検校派は、昭和24年から黒谷の常光院で6月12日(検校の命日)に法要(八ツ橋祭)を行っています。もっとも検校の墓は長く忘れられて無縁仏状態でした。それが新たに発見されたのは昭和9年のことです。その発見が八ツ橋検校説浮上のきっかけになったのかもしれません。ということで検校の墓は、その後八ツ橋製造業者によって守られているのです。
 こうして6月22日が記念日になったのですが、聖護院八ツ橋は常光院の法要から抜け、同じ日に独自に法然院で八ツ橋忌を行なっているとのことです(「祭」と「忌」の違いがあります)。いずれにしても「八ツ橋の日」は、検校が亡くなった4年後の1689年(元禄2年)創業起源説に依拠していることになります。
 ちなみに「日本国語大辞典」では、八橋煎餅の初出例として夏目漱石の『満韓ところどころ』(明治42年)にある「八橋と云ふ菓子」をあげています。正岡子規の『墨汁一滴』(明治34年)にも、全国の名物の一つとして「京都の八橋煎餅」があげられていました。その他、岡本綺堂の『明治劇談ランプの下にて』の「新富座見物」に、「辻占入りの八橋」と出ていました。辻占(おみくじ)入り煎餅は現在、京都煎餅組合所属の総本家いなりやで商われています。