🗓 2022年05月28日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

『暮らしの古典歳時記』に、「本名と号の組み合わせは不可?」を書きました。そこで「北条政子」に関しては、夫の姓をとって「源政子」とは名乗っていないとコメントしましたが、どうもそれだけでは済まなかったようです。「北条政子」という名前にしても、本人は名乗っていないことがわかってきたからです。
 そもそも「北条政子」という名には疑惑がありました。端的にいえば、「北条」は北条(平)時政の娘なのでそれでもいいのですが、姓は「平」ですから「平政子」の方が本名だという説もあります。まず「北条」か「平」かという問題があったのです。
 それよりもっと重大なことは、なんと「政子」にしても本名ではなかったとされているのです。では何という名前だったのかというと、正直なところ本名はわかっていません。もちろん幼名は「万寿」(真名本曾我物語)だったとか、「朝日」(仮名本曾我物語)だったとかいわれていますが、確かな証拠があってのことではありません。どちらも創作された可能性の方が高いようです。
 普通は時政の娘ということで、単に「大姫」(長女)とか「平氏女」で十分通用したはずです。もともと当時の女性の名は、皇族かよほど身分の高い女性でない限り、亡くなった時にさえ記録されることはありませんでした。「道綱母」や「孝標女」などがむしろ一般的だったのです。もちろん名前は付けられていたでしょうが、それはごく一部の身内しか知りませんでした。それに一介の武士の娘の名前が、記録に載るはずもありませんし、本人が実名を口にすることもありません。自ら「政子」とは口にしなかったはずなのです。
 その「政子」が歴史に名を残すことになったのは、当然源頼朝と結婚してからでした。それでも冠される名が父から夫に変わっただけで、「頼朝の妻」と称されてもおかしくありません。さらには将軍となった息子との関係で、「頼家の母」(愚管抄)とも称せます。さすがに頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を樹立させると、「御台所」(吾妻鏡)という尊称が付けられました。
 頼朝の死後、出家して落飾すると、今度は「尼御台所」と称されています。さらに実家の北条氏が実権を握ると、今度は「尼将軍」という名に変わっています。そして建保六年(1218年)、政子が62歳の時、朝廷(後鳥羽院)から従三位の位に叙せられることになりました。おそらくその際、記録に残すための名前が要請され、当時の慣例に従って便宜的に父「時政」から一字もらって「政子」と記録したのではないでしょうか。
 しかしそれはあくまで朝廷の記録上のことなので、本人も「政子」という自覚はなかったはずです。その後はさらに位が上がり、「二位尼」や「二位殿」(御成敗式目)・「従二位平政子」(神皇正統記)と称されています。これも朝廷を意識した呼称ですね。ということで、少なくとも生前の書状に「北条政子」という署名はおろか「政子」も認められません(もしあったら偽物です)。
 しかしひとたび記録に書き止められれば、それ以降は「政子」が正式名称として独り歩きしていくことになります。ここから逆に、生まれた時に「政子」と命名されることはありえなかったとされているのです。ということは、親兄弟そして夫の頼朝でさえも、「政子」という名など知らなかったし、そう呼んだこともなかったことになります。
 どうやら「北条政子」は、時代が下って江戸時代以後の書物に登場しており、それ以降に定着していったいわゆる通称のようです。ただし明治・大正の教科書では、「政子」や「平政子」は使われていますが、それでも「北条政子」とは記されていないとのことです。それが昭和になると、日本史辞典などが便宜的に「北条政子」を立項したことで、いつしかそれが本名だと信じられるようになったのでしょう。ある意味、「北条政子」は辞書の項目用語だったのです。
 こうして今では、「北条政子」という名称に疑問を抱くこともなく、堂々と本名としてまかり通っているわけです。大河ドラマでも、堂々と「北条政子」を使っていますが、それは二重の意味で誤解を招くことになりかねません。もうそろそろきちんと検証されてもいいのではないでしょうか。