🗓 2023年07月29日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

会津藩と天神様人形については、前に「吉海直人の古典講座(15)―蒲生氏郷が会津にもたらした関西文化」で、「張り子の天神様人形も、蒲生氏郷が京都から職人を招いて下級武士に技術を学ばせ、会津の名物として商わせたといわれています」と述べました。しかしながら、どうもそれだけでは説明不足のようなので、あらためて会津と天神様の関わりについて詳しく調べてみました。
 私が会津の天神様に興味を抱いたのは、はじめて会津を訪れた時に次のような経験をしたからです。まず会津武家屋敷を見学した際、思いがけず撫で牛を見つけました。しかもその先に会津天満宮があったのです。失礼な物言いですが、何故こんなところに天満宮があるのかと不審に思って案内板を見ると、かつて西郷頼母の屋敷に菅原神社が勧請されていたと書かれていました。後に西郷頼母の邸が会津武家屋敷として復元された際、会津天満宮も一緒に復元されたというわけです。
 次の経験は、鶴ヶ城の周辺を散策していた折、湯川にかかっていた橋の名称が天神橋とあったことに驚きました。そこで古い地図を調べてみると、その橋のたもとに深沢天神が鎮座していたのです。現在は菅原神社となっていますが、その一帯は天神町となっています。要するに天神橋は、天神様をお参りするために渡る橋だったのです。その由来を見ると、かつて葦名直盛が鎌倉から当地に下向した際、天満宮を勧請したと書かれていました。そこで神奈川の天満宮を調べてみると、天慶年間(940年頃)、上総介平良文が鎌倉に天神を祀ったのがはじまりとされていました。
 その他、会津若松市神指町天満に天満宮が鎮座しているし、会津若松市柳原町四丁目には柳原天満宮があります。また大沼郡会津美里町宮林にある伊佐須美神社(陸奥国二宮)には、末社として菅原神社が祀られています。少し離れた会津若松市北会津町西後庵後庵東には、菅原天満宮があります。また耶麻郡猪苗代町中小松西浜には立派な小平潟天満宮も鎮座しています。日本三大天満宮としては、太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮があげられていますが、防府天満宮に代わって小平潟天満宮があげられることもあります。小平潟天満宮は日本三大天満宮の一つにも数えられているのです。
 こうしてみると、会津には意外にたくさんの天神様が祀られていることがわかりました。はじめて会津若松を訪れた折、会津と天神様の古くからのつながりを知らなかった私は、違和感を抱きました。ところかそれは私の無知によるものだったのです。会津の天神様は江戸時代から人々に信仰されていて今に至ったものだったのです。
 張り子人形の天神様は、会津では男の子が誕生すると、賢く健やかに育つことを祈って張子の天神様を買い求める習わしがあったようです。そういった天神信仰が土壌としてあるからでしょう、お菓子の蔵太郎庵(タローパンもあります)では張り子人形にあやかった「会津の天神さま」というお菓子(ブッセ)を販売しています。これは昭和54年に太郎庵が開店した時からの創業菓子だそうです。それが今では会津を代表する銘菓となっています。このお菓子の人気によって、張り子人形も復活するといいですね。会津の天神様がますます郷土に根付くことを願ってやみません。
 ついでながら、道真を祀る北野天満宮が947年に創建されたのは、左遷された菅原道真が903年に大宰府で亡くなった後、京都では日照りや疫病が流行しました。清涼殿に落雷もありました(道真は雷神とされています)。左遷した張本人の藤原時平も、39歳で急死しています。時の東宮保明親王も20歳で病死しました。次の東宮になった慶頼王(保明親王の長男)も5歳で亡くなりました。それがすべて道真の怨霊の仕業と思われたことで、道真を神と祀って災いを鎮めようとしたのです。
 ですから当初、天神は恐い祟りの神様だったのです。それがいつしか忘れられ、江戸時代になると徳川家の尊崇を受けた湯島天神のように、学問の神様として新たな信仰の対象となりました。現在、全国に1万2千以上の天神社(天満宮・天満神社・天神社・天神・菅原神社・北野神社を含む)があります。当然、会津の天神様も学問の神様として祀られているのです。
 その天神様に付き物なのが梅ですよね。何か太郎庵で梅にまつわるお菓子を考案してもいいのではないでしょうか。