🗓 2024年04月13日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

皆さん、「花より団子」ということわざはご存じですよね。本来は風流を解さないで実利を求める人を揶揄したものでした。昔だったら「いろはかるた」、しかも「江戸いろは」の「は」の札として覚えていたはずです(「京いろは」では「針の穴から天のぞく」です)。 現代ではもはや「いろはかるた」で遊ぶことはないかもしれませんが、「花より団子」はこれ一つだけで今も独立して流通しています。というのも、毎年春の花見のシーズンになると、決まって繰り返し口にされるからです。
 なお「江戸いろは」の成立は江戸時代後期ですが、「花より団子」はそれよりずっと前から使われていました。というのも、江戸時代中期頃成立の古い「たとへかるた」にも既に出ているからです。ではどこまで遡ることができるのでしょうか。時田昌瑞氏の『図説ことわざ事典』(東京書籍)によれば、『普世俗談』(1762年)に出ているそうです。ところがもっと古い例がありました。なんと松永貞徳の俳諧に、

花よりも団子やありて帰る雁(犬子集)

とあったのです。『犬子集』は1633年成立ですから、江戸時代初期には詠まれていたことになります。これは花の季節なのに、それを楽しまないで帰る雁は、きっと故郷に団子でもあるのだろうという句です。

これには本歌がありました。それは『古今集』にある伊勢の、

春霞立つを見捨てていく雁は花なき里に住みやならへる(31番)

です。春霞が立ったというのに、花を見ないで帰っていく雁は、きっと花のない里に住みなれているのだろうという歌です。和歌の世界では、帰る雁を花の美を解しないとしているのに対して、貞徳はそれを団子に替えて詠んでいるところがおかしみといえます。

これを見ると、貞徳以前に「花より団子」は流通しているようにも思えます。そこでさらに調べてみたところ、山崎宗鑑の『新撰犬筑波集』(1532年頃成立)に、

花よりも団子と誰か岩つつじ

とありました。今のところこれより古い例は報告されていません。なお「岩」は「言は」(言う)の掛詞になっています。

それとは別に、安楽庵策伝の『醒睡笑』(1628年成立)に、

花よりもだごの京とぞ成にけりけふもいしいしあすもいしいし

という狂歌が採録されています(『寒川入道筆記』(1613年にもあり)。詞書を見ると、

信長公始て京都に石垣の普請被仰付毎日石を引音喧しかりければ

とあります。これによれば花は足利将軍家、「だご」(団子)は織田信長を指しており、京都の支配権が足利将軍家から織田信長に移ったことを皮肉っていることになります。信長が石垣の普請を命じたことで、毎日石を引く音がするというわけです。「いしいし」は「石々」と「団子」(女房言葉)の掛詞です。

ところで時田氏の『図説ことわざ事典』は、その書名の通りたくさんの図版が挿入されて便利です。前述の『普世俗談』の挿絵を見ると、団子は串に五個さしてあります。また『有喜世諺艸』(1828年)の挿絵も五個になっています。古くは五個だった団子が四個に減ったことをご存じでしょうか。これには理由がありました。それは明和五年(1768年)に四文銭が発行されたことです。団子は五個で五文だったので、四文銭では買えません。そこで団子を一つ減らして四文にして売ったというのです。これなら四文銭一枚で買えますよね。
 『普世俗談』ならそれで説明がつきますが、『有喜世諺艸』はそれからずいぶん経っているのに五個のままですから、説明がつきません。ただし関西では五個のままだったので、これは関西の団子が描かれているのかもしれません。歌舞伎の名優三代目中村仲蔵が大阪公演から江戸にもどって団子を食べた時、大阪で食べた団子は五つ刺しだったのに、江戸にもどったら江戸前で四つ刺しになったと喜んで、

四つざしの団子尊き桜かな

という句を詠んでいます(自伝『手前味噌』所収)。さすが江戸っ子ですね。

なお京都の下賀茂神社のそばで売られている御手洗団子、ご存じですよね。これが団子の元祖といわれています。その起源説は後醍醐天皇にまで遡ります。天皇が下賀茂神社の御手洗池で水をすくったところ、泡が一つ浮かんできました、しばらくするとまた泡が四つ浮いてきたそうです。これを見立てて、団子を串に先端は一つ、少し間を空けて四つ刺しました。それを氏子が作って茶店で売ったことから、名物として広まったそうです。
 もともと御手洗団子は人間の五体を模し、厄除けの意味も含まれていたので、今も串に五個ついています。一番先端の団子と二番目の団子の間が少しだけ空いていますが、先端の一個は人間の頭で、空間は首だったのです。今度食べる時には是非確認してください。