🗓 2024年08月10日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

みなさんは「あかあかと」という言葉から何を連想しますか。俳句が好きな人なら芭蕉の「あかあかと日はつれなくも秋の風」でしょうか。また近代短歌が好きな人なら斎藤茂吉の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」(『あらたま』所収)でしょうか。ここでは芭蕉の句について少し踏み込んで考えてみましょう。
 そもそも「あかあかと」とはどんな意味なのでしょう。漢字で書くと「赤々と」か「明々と」になります。一方は色で一方は明るさですね。これがひらがなで書かれているとなると、どちらなのかすぐにはわかりません(両方でもかまいません)。もっとも俳句では「日」を修飾しているのですから、「明」だと太陽が明るさを増す昼間になり、「赤だと」朝焼けか夕焼けに限定されます。さてこの句はどっちなのでしょうか。そこで原点に立ち戻ってみましょう。
 芭蕉の句が詠まれたのは、『奥の細道』の途上、元禄二年(1689年)の七月十五日(新暦8月29日)以降ですから、とっくに季節は秋になっています。その年の北陸はかなり残暑が厳しかったようで、旅をしていた芭蕉も暑さに閉口していました(夏バテ気味)。ですからこの「あかあかと」は単なる色や明るさではなく、夏の暑さも籠められていると考えられます。それを涼しそうな「秋の風」と対比して詠んでいるわけです。これが夏の終わりから秋の初めへの季節の変わり目だとすると、昼間はまだ残暑で日差しも強いけれど、さすがに夕方に吹いてくる風には涼しい秋の気配が感じられるということになります。
 実は古典で「秋の風」といったら、藤原敏行の名歌、

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(『古今集』169番)

がすぐに想起されます。これは立秋の日に詠まれたものです。暦の上ではもう秋なのに、まだ秋の景色にはなっていません。ところが秋風が吹くと、その涼しさに秋が感じられるというわけです。

おそらく芭蕉もこの歌を踏まえているのでしょう。というのも、この歌が引用されている資料がいくつか残っているからです。例えば芭蕉の真蹟懐紙には、

めにはさやかにといひけむ秋立けしき、薄・かるかやの葉末にうごきて、聊昨日に変る空のながめ哀なりければ

とあります。また真蹟竪幅にも、

旅愁なぐさめ兼て、ものうき秋もややいたりぬれば、さすがにめにみえぬ風の音づれもいとどかなしげなるに、残暑猶やまざりければ、

と書かれていることから、明らかに「秋来ぬと」歌を意識していたことがわかります。それはさておき、実際にこの句が詠まれたのは立秋からかなり経過していたのですから、元禄二年は相当厳しい残暑だったことが察せられます。

なお、この資料からでは、それが夕日だったのかどうかはっきりしません。幸い別の真蹟自画賛の絵に赤い夕日と二本の薄が描かれており、それによって夕日であったことがわかります。次にこの句を詠んだ場所ですが、披露されたのは金沢到着後で、七月十七日の北枝亭とされています。
 それ以前であればどこでも可能なので、実際にどこで詠まれたのかははっきりしません。それどころか芭蕉は、

北国行脚の時、いづれの野にや侍りけむ、あつさぞまさるとよみ侍りしなでしこの花さへ盛過行比、萩・薄に風のわたりしを力に、旅愁をなぐさめ侍るとて、

と、いずれの野だったかとぼかしています。また別のところでは、

北海の磯づたひ、まさごはこがれて火のごとく、水は湧て湯よりもあつし。旅懐心をいたましむ。秋の空いくかに成ぬともおぼえず、

と、漠然と海岸沿いと記しています。日本海に沈む夕日も絶品ですが、それ以外何も書き残していないので、芭蕉がいつどこでどんな夕日を見て詠んだのかは謎のままです。

そのためこの句碑は、金沢の兼六園内・成学寺の境内・犀川大橋のたもと・小松天満宮の境内・富山の小矢部川サービスエリアなどに建立されています。むしろ芭蕉はさまざまな状況の中にこの句をおいて、いろいろな解釈を楽しんでいるように思えてなりません。