🗓 2024年08月03日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

旧暦七月七日(今年は8月10日)は七夕(星祭り)です。当日の夜、晴れていたら空を見上げて天の川(ミルキーウェイ)を見て下さい。夏の大三角形はすぐ見つけられます。天の川を跨いで、琴座のベガが織姫(織女)で、鷲座のアルタイルが彦星(牽牛)です。中国の古い伝説によると、二人は非常に働き者でしたが、夫婦になった途端に怠け者になってしまいました。怒った天帝は二人を引き離し、年に一度だけ逢うことを許しました。それが一般的な七夕伝説の基本です。
 これでお分かりのように、七夕伝説は西欧にはない中国文化圏独自の行事といえそうです(韓国にもあります)。七夕の夜は、彦星と織姫が一年に一度だけ逢える日です。そのため最近では、七夕の夜に星を見ながらデートを楽しむカップルも増えているようです。この牽牛と織女の初出は、中国の『詩経』(紀元前九世紀)とされています。それが『文選』の「古詩十九首」(後漢)になると、既に悲恋の要素が付与されています。しかしまだ七月七日と限定されているわけではありません。それが梁時代の『荊楚歳時記』(六世紀)になると、七夕伝説(悲恋物語)の骨格がほぼ完成しています。
 それとは別に、中国には手芸・裁縫の上達を願う乞巧奠きつこうでんという年中行事がありました。ともに七月七日の行事とされたことで、いつしか七夕伝説と乞巧奠が混同されていったようです。それが日本に伝わり、平安貴族たちはその日に技芸の上達を星に祈ったそうです。というより、七夕は女性が機織や裁縫・手芸の上達を願う行事ですから、男性貴族には当てはまりません。そこで日本では男性用に書の上達や琴などの芸事の上達に変容させています。その際、里芋の葉に置いた露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて手向けるのが一般的でした。『後拾遺集』に、

天の河とわたる舟の梶の葉に思ふことをも書きつくるかな(242番)

とあるのがその例です。冷泉家では、現在でも乞巧奠が年中行事(五節句の一つ)として行われています。

やっかいなことに、七夕伝説と乞巧奠の混同だけでは、日本の七夕の説明はつきそうもありません。というのも、現在メインになっている笹の葉に願い事を書いた短冊を吊るすという風習は、古い文献に一切見られないどころか、本家の中国でも韓国でも行われていないからです。おそらく貴族の乞巧奠で用いられた梶の葉が、後世における大衆化の中で、願い事を書く短冊に変容したのでしょう。その際、竿に吊るした五色の糸にあやかって笹に五色の短冊が飾られたのでしょうが、どうも黒では墨の字が見えないので敬遠され、紫に替えられたようです。竹の文化圏に伝わる行事といえればいいのですが、日本以外では笹の葉は登場しないので説明に窮してしまいます。
 日本の七夕をうまく説明するために、棚機たなばたという豊作を祈る農耕儀礼(日本的要素)が導入されました。というのも『万葉集』の「たなばた」はすべて織女のことであり、七月七日(七夕)の日付とは関係ありません。それが棚機との混同の中で、いつしか「七夕」も「たなばた」と読まれるようになったようです。『江戸鹿子』(貞享四年)を見ると、「江戸中の子供短冊を七夕に奉る」とあり、ここに至ってようやく短冊のことが記されています。ここでは寺子屋が主体となっており、子供たちの書道の上達が祈願されていました。ですから現在の七夕は、江戸時代に確立した日本固有の庶民的な風習・年中行事ということになります。要するに貴族の七夕から武家の七夕へ、そして庶民の七夕へと徐々に広がっていったわけです。
 なお日本では、七夕に雨が降ると二人は逢えないと思われているようですが、お隣の韓国では、雨は織女の嬉し泣きと考えられており、むしろ雨が降った方が喜ばれているようです。また日本では、彦星(男性)が織姫に船に乗って逢いに行くとされていますが、元祖・中国では織女が牽牛に逢いに行きます。その際、鵲が羽を広げて織女を渡すことになっています。天の川を渡るのが男なのか女なのか、日本と中国では逆になっています。ご存知でしたか。
 ところで本来の七夕は旧暦の七月なので、季節は初秋でした。それが新暦ではなんだか夏の年中行事のようになっています。そのため七夕を旧暦で行っているところもあります。さらに仙台の七夕まつりなど、月遅れの八月七日に定めて行っています。厳密にいうと七夕の日は現在三種類もあるわけです。
 最後にもう一つ、みなさんは短冊に恋人がほしいとか金持ちになりたいとか、虫のいいお願いを書いてはいませんか。そんな欲張ったお願いなど神様は叶えてくれません。もともと習い事の上達を祈願するものだったからです。せっかくだから自分のやりたいことを表明し、その目標達成に向けて努力することを、神様に誓ってみるというのはいかがでしょうか。