🗓 2024年10月19日

吉海 直人

明治になって、日本にも西洋音楽が導入されるようになりました。特に力を入れたのは小学校における音楽教育でした。それは小学生のうちに教えこまなければ、西洋音楽は身に付かないという危機感があったからです。それまで日本には、みんなで一緒に歌うような歌などなかったのですから、いわばゼロからの始まりでした。当然教える教師も教材も教え方のノウハウもありません。
 そこで文部省は音楽取調掛を設け、そこにアメリカの音楽教師ルーサー・ホワイティング・メーソンを招聘して、日本人と協力して『小学唱歌集』の編纂に着手させました。その唱歌集を用いて、全国の小学校で唱歌を教えるという一大プロジェクトをスタートさせたのです。それを強く推進させたのは、森有礼と田中不二麿の二人だったようです。
 その小学唱歌集には、現在までよく知られている歌がたくさん掲載されています。もっとも有名なのは、「結んで開いて」(見渡せば)か「蝶々」でしょう。それだけでなく、卒業式の定番となった「蛍の光」や「仰げば尊し」も収録されているし、「庭の千草」も含まれています。
 変ったところでは、「リパブリック賛歌」あるいは「やあ、兄弟達よ」としてアメリカで歌われていた曲が、日本では「たんたんたぬき」や「権兵衛さんの赤ちゃん」・「お玉じゃくしは蛙の子」・「おはぎがお嫁に行くときは」・「丸い緑の山手線」(ヨドバシカメラのコマーシャルソング)などの替え歌になっていることです。また阪田寛夫もこの曲に「ともだち讃歌」という歌詞を書いています。おそらく替え歌にしやすいメロディなのでしょう。
 興味深いのは、それらの曲の多くが、讃美歌として歌われていた曲と同じメロディだったという事実です。「蛍の光」は「目覚めよ我が霊」(讃美歌370番)でした。「結んで開いて」と同じ曲の「見渡せば」は、「ルソーの夢」でした。「菊」というタイトルになっている「庭の千草」は、「夏の名残のバラ」という曲です。メーソンは唱歌として積極的にというか密かにアメリカの讃美歌のメロディを選んでいたのです。
 このことについて植村正久は、「当時の文部省は外国の音楽家を雇い入れて、ようやく唱歌を教え始めた。その多くは米国に行なわれる讃美歌と同じ譜であった」(『植村正久と其時代四』教文館所収)と証言しています。ここで留意すべきは、当時の日本人は西洋音楽に関してはまったく無知で、意見がいえないどころか、まったくまかせっきりだったという事実です。よく考えると当たり前のことですね。何しろ西洋の知識がなかったのですから。
 それに対して歌詞は日本語なので、堂々と意見がいえます。もちろん決して原曲の忠実な翻訳ではありません。むしろ新しく唱歌にふさわしい内容の歌詞が創作されました。なにしろ国の政策として行なわれた事業ですから、歌詞は儒教的な思想によって厳しく検閲されました。「蛍の光」の三番の「別るる道は変るとも変らぬ心行き通ひ」が男女の交際を思わせるということで、「海山遠く隔つともその真心は隔てなく」に修正されたことはよく知られています。
 ということで、歌詞については明治の天皇制にふさわしいものが選ばれました。それが学校教育の効果によって全国に浸透していったからこそ、「蛍の光」や「仰げば尊し」が卒業式で歌われるようになったのです。
 歌詞は言葉ですから、耳にとまります。それに対して曲にはあまり関心が示されませんでした、それが賛美歌のメロディだったとしても、それに気づく人はいないし、その教育的効果も当時は軽く見られていたのでしょう。
 こうして近代日本で誕生した唱歌は、その裏で密かに讃美歌の曲を用いることによって、メロディ的には確実に若い日本人に浸透していきました。唱歌はキリスト教の布教に利用されたともいえます。もっともそれがどれだけ効果があったのかはわかりませんが。