🗓 2019年11月02日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

明治20年の夏、新島夫妻は北海道で3ヶ月間保養している。八重はそこで旧知の日向ユキとも再会しているのだが、実はそれだけではなかった。新島夫妻は牧師の大島正健と家族ぐるみの付き合いをしていたのだ。その正健の長男正満こと「みつ坊」(1884年6月21日生まれ)が今回の主人公である。

正満は成長して東京帝大を卒業し、生物学者となっているので、新島夫妻とは無縁の存在と思われていた。その正満は昭和9年に『不定芽』というエッセイ集を出版しているが、その冒頭は「新島の小父さん」であった。このエッセイは、戦後すぐの暫定教科書『初等科国語八』に、「めぐりあひ」というタイトルで収録されている。
さて正満は、新島夫妻との北海道でのエピソードを以下のように回想している。

ある日のこと、をぢさんとをばさんが外出の用意をととのへて、「満坊、よいところへつれて行ってあげるから、さあ、出かけよう。」と、私をうながした。いそいそと玄関へ出かけて、踏石の上にそろへてある大小二足の靴をちらとみた私は、たちまちふくれあがって、だだをこねだした。「をぢさんたちと行くのがいやなのか。何、さうぢゃない。ではどうしたのだ。何が気にさはったのかなあ。八重子、満坊がまた奥の手を出したよ、弱ったなあ。」といって、をぢさんは、をばさんに助け舟を求められた。「満坊、何が気にさはったの、をばさんにいってごらん。」小さな声でうったへる私のくりごとを耳にしたをばさんは、腹をかかへて笑ひだした。「をぢさんの靴は光ってゐるのに、坊やの靴はほこりだらけだから、行くのはいやだといってゐるのですよ。なんとかしなければ、おみこしはあがりませんよ。」「ああさうか、よしよし。」をぢさんは、きちんと着ていた上着をかなぐり棄てて、片手に小さな靴を持ち、片手に大きなブラッシをつかんで、力のかぎり磨きをかけた。「満坊、これでどうだ。をぢさんのよりきれいになったらう。さあ行かうぜ。」出された靴を見て、にこにこと笑った私は、それを足先につっかけるなり、すぐ、飛鳥のやうに飛び出した。
楽しい思い出話はさらに続く。
門を出て数町とは行かないうちに、私は道路のまん中で無言でつっ立ったまま動かなくなった。「弱ったなあ。八重子、僕のステッキを持っておくれ。」をぢさんは、道端にしゃがんで自分の背をたたきながら、「満坊、これか。」と、にやにや笑ひながら私に呼びかけた。見るなり私は、をぢさんの広い背に飛びついた。さうして、足をばたばたさせながら、「をぢさん、早く歩いてよ。」と命令した。暑さのきびしい夏の日に、私を背に負ひながら、汗をふきふき歩かれた新島のをぢさんと、日がさをさしかけながらついていらっしゃった、新島のをばさんとの印象は、今も私の胸にやきついている。

これは子のない襄・八重夫婦にとって、かけがえのない体験であった。それから数年後、縁あって正健が襄のいない同志社に赴任してきた。その父に伴われて、正満も京都にやってくる。正満は早速新島邸へ招かれた。

なつかしい新島のをばさん、をばさんは眼に涙をためながら、しゃにむに私を奥深くひき入れた。さうして、「をぢさんが生きてゐたら、どんなにか喜ぶだらうに…。」といひながら、主なき書斎へ私をみちびいた。「ここがをぢさんのへやですよ。あれをごらん」と、指さされるままに、顔をあげて壁面を見あげると、をぢさんの大きな写真であった。傷のある眉間の下に輝く眼は、思ひなしかやはらいでみえ、その口もとがほころんで声もさわやかに、「満坊」と呼びかけさうにみえた。「机の上をごらん。」をばさんのことばに眼をうつすと、をぢさんが、日夜筆をとられたといふ大きな机の上に、靴を磨かせた満坊時代の私の大きな写真が飾ってあるではないか。ああ、新島のをぢさんは、私を京都にまでつれて来て日夕かはいがってくださったのだ。手紙のたびごとに安否を問はれたのもそのはずだ。今その写真の主が、かうしてをぢさんを見あげているのに、をぢさんの声は聞えないのだ。暗い心になって、じっとをぢさんの写真に見入りながら、私は無言で頭をぴょこんとさげた。

この後、2人は人力車に乗って襄の墓参りに出かける。

洛東若王子の一角にある苔むす一基の墓石、その前に立ったをばさんは、「満坊が参りましたよ。」といって、私を引きよせた。勝海舟の筆になる「新島襄之墓」という五つの文字を刻んだそのおくつき。墓石に水を注ぎながら、「満坊ですよ。」と、をばさんは再び呼びかけた。私は、「をぢさん。」と、呼びかけようとしたが声が出なかった。しづかに頭をさげた。

泣かせる文章である。残念なことに、この「みつ坊」のことは「八重の桜」では一切触れられなかった。