🗓 2019年11月09日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

2012年の2月、会津若松の県立葵高等学校(旧会津女学校)を訪れ、八重直筆の書4点を見せていただいた(鎌田郁子先生にお世話になった)。その書には八重の年齢(数え)が記されており、そのうちの3点が「84歳」で、残りの1点が「86歳」と記されていました。つまり昭和3年に書かれたものが3点、昭和5年の書が1点ということになる。

「84歳」の書の内の1点は額装になっており、横長の和紙に「美徳以為飾」と書かれていた。これは外面より内面を磨くことが大事だという意味である。普通は「美徳を以て飾りと為す」と読まれているが、漢文の文法からすると、「以美徳」とあるのが一般的である。そのため「美徳、以て飾りと為す」と読む人もいる。出典は、どうやら新約聖書ペトロの手紙第3章3節から4節のようだ。そこには、

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。

とある。「美徳」とはないが、内容はピッタリである。

この書は他に同じものがないとされていたようだが、これを見た私は、あれどこかで見た覚えがあるとピンときた。それは「婦人世界」6―1(明治44年1月)に所収されている「家庭人としての新島襄先生の平生」という八重の懐古談の中である。その末尾に、

いつか熊本の女学校から頼まれて書いた額に、「美徳を以て飾とせよ」と書いて送りましたが、これが襄の理想であつたらしく思はれます。

と記されていたのである。これは襄の書にあった文句なのだ。私はたまたまその雑誌を入手し、その翻刻並びに紹介の原稿を書いたことがあったので、記憶に残っていたのだ。

ここで二つのことを確認しておきたい。一つは、八重はかつて襄がしたためた文句を、晩年になって自らもしたためているということである。これについては他にも事例がある。本井康博氏の『ハンサムに生きる』(204頁)には、「心和得天真」(心和すれば天真を得)という文句を書いた襄と八重の書が並べて掲載されている。襄の書は同志社の遺品庫収蔵、八重の書は福島県立博物館所蔵(五十嵐竹雄旧蔵)とのことである。同様に「志在千里」(こころざし千里にあり)も二人が書いたものがあった。襄の書は熊本英学校旧蔵で、八重の書は高橋喜市旧蔵である。おそらく八重の書に注目が集まれば、これからもっと多くの事例が発見・紹介されることであろう。

ではどうして八重は、晩年になって襄の書と同じ文句を書いたのだろうか。夫婦として一緒に生活していた時、二人の性格は正反対と言われていた。本井康博氏など、八重は肉食系女子で、襄は草食系男子とたとえている。それは極端すぎると思うが、襄が亡くなった後、未亡人となった八重には、襄の語り部という大きな役割が要請された。襄の妻として、しばしば襄の生前の思い出話を語っているうちに、八重は次第に襄と一体化していったのではないだろうか。そのためかつて襄が書いたものを八重も、おそらく八重としてではなく襄になりきって書いたと考えることはできないだろうか。

もう一つは読み方である。「婦人世界」を見ると、八重もしくは襄は、「為」という漢字を「なす」ではなく「せよ」と命令形で読んでいた。せっかく八重の懐古談に読み方が記されているのだから、「美徳を以て飾りとせよ」と読んではどうだろうか。

ところで、襄が頼まれて書き送ったという「熊本の女学校」について調べてみると、「熊本女学校」というキリスト教の学校が浮上した。明治20年当初は「女学会」と称されていたようだが、明治21年には襄の教え子の1人である海老名弾正が校長をしていた熊本英学校の附属女学校となり、翌明治22年に「熊本女学校」として独立している。

面白いことに襄は、英学校には「志在千里」を、女学校には「美徳以為飾」を書き送っているのである。要するに男子校と女子校で、それぞれにふさわしい文句を選んでいることになる。だからこそ八重も襄の精神を受け継いで、「美徳以為飾」を会津女学校に書き送っているのだろう。