🗓 2020年04月13日
吉海 直人
京都府立総合資料館(現在は歴彩館)には、明治初期の貴重な公文書が大切に保管されている。ほとんどは写しだが、既に重要文化財に指定されている。その中に八重の貴重な資料がいくつか埋もれていた。まずは八重の辞令があげられる。
女紅場権舎長兼機織教導試補申付候事
明治八年二月八日 京都府
八重は明治5年4月に開校した女紅場に「出頭女」として勤めていた。それから4年も経っているので、これは昇格の辞令であろう。最初から「権舎長兼機織教導試補」だったかどうか、この資料から判断するのは危険である。
次に八重の「休暇願」があげられる。
無拠用向有之下坂仕度候間来月四日ヨリ女紅場休業中間三十一日迄御暇被下度此段奉願候以上 女紅場権舎長
明治八年七月 山本八重
これには対になる許可証も一緒に残っていた。
権知事槙村正直殿代理
京都府権参事国重正文殿
「聞届」というのは許可するという意味である。では一体、八重は何のために1ヶ月近くも休暇を取ったのだろうか。これを襄の学校設立と連動させ、覚馬と一緒に大阪で学校設立の根回しをしたと見る人もいる。ところがその答えがデイヴィスの英文書簡の中に見つかった。クラーク宛のデイヴィスの手紙(明治9年2月15日付)に、
とあったのだ(本井康博先生『八重さん、お乗りになりますか』参照)。現代語に訳すと、「夏の間、彼女(八重)は神戸と大阪に出向き、宣教師宅に滞在いたしました」となる。どうやらこの夏、八重は大阪や神戸の外国人宣教師宅で、自らクリスチャンになるための修行をしていたようである。
その成果が認められたのだろう、2ヶ月後の10月15日に八重は襄と婚約した。襄がアメリカのハーディ夫妻に八重との婚約を告げた11月23日付けの書簡の中には、
と書かれている(原文英語)。「彼女の回心が明白である確証を得ました」とあるのは、夏の合宿の成果を意味しているのではないだろうか。これまで二人の結婚に関しては、襄の方が一方的かつ積極的だったとされてきたが、この1ヶ月の合宿という事実を勘案すると、八重の方もそのつもりで行動していたことになりそうだ。
しかしそういった行動によって、八重は女紅場を免職させられる。幸いその辞令も残っていた。
女紅場権舎長并機織教導試補差免候事
明治八年十一月十八日
非常に簡素な書類である。「差免」というのがやめさせることである。デイヴィスの書簡には、「理由を告げることなく」と書かれているが、こういった公文書はいちいち理由など書かないのが普通のようだ。
大河ドラマ「八重の桜」では、明治8年のことはほとんど省略されていた。しかしこの夏の合宿は、八重の人生において看過できない重要なできごとである。それを証明する資料が現存していたので、ここに紹介させていただいた。