🗓 2020年04月18日
吉海 直人
山本覚馬の後妻・時栄について、八重側の視点からは厳しく書かれている。しかしその時栄を、覚馬に献身的に仕えた女性として美化しているものもある。それは元会津藩士・広沢安任の著した『近世盲者鑑』(明治22年刊)である。
タイトルからわかるように、この本は近世の盲者九人の生涯を短く綴ったものだが、その最後(九人目)に山本覚馬が登場している。安任はその覚馬を「我友山本覚馬」として紹介しているのだが、戊辰戦争以降は別々だったはずなので、何故安任が時栄のことをこれほど詳しく、しかも美談として書いているのかわからない。その情報源は一体どこだったのだろうか。
まずは時栄について記されている文章を抜粋してみたい。
先に覚馬の病益深し。よりて独自ら其身を保つ能はず。配偶其人を求むれども人多くはその病を以て之を辞す。覚馬も亦其意に適せざるは敢て苟も娶るを欲せざるなり。一夫婦人あり。京中士人の娘なり。曰く予は尋常の人に嫁するを欲せずと。覚馬の人となりを聞き、此に嫁せんと欲す。覚馬聞て亦悦び遂に共に結縁せり。此より眼は盲せども常に其婦の扶に由て身を保てり。婦も亦其夫を回護し、至らざる所なし。幾もなくして此変に遇へり。時に覚馬は出て容保君の跡を追ひ途に在り。而して屯兵厳にして過る能はず。捜索も亦密にして遁るべきにも非ず。覚馬も亦累を人に及すを恐れ、婦の在らざるを伺ひ、意を決して独出て、西郷隆盛の陣営に自首す。時に婦は覚馬の見へざるに驚き、追求めて始めて之を陣中に得たり。乃ち其夫の不具なるを弁じ、共に拘囚に就かんことを請ふ。法の許す所に非ざれども請て止まず。其言鑿々理に中れり。此に於て許されて共に入り之を扶持するを得たり。
これによれば時栄は武士の娘であり、他の女性とは違って覚馬の人間性を知って、自ら志願して嫁いだとある。妻となった時栄は、夫覚馬の身の回りの世話を献身的に行った。戊辰戦争が勃発した際、覚馬は「西郷隆盛の陣営に自首す」とあるが、捕らえられて薩摩藩邸に幽閉された。急にいなくなった覚馬を追い求めた時栄は、覚馬が薩摩藩邸に囚われていることがわかると、自ら不自由な夫の世話をさせてほしいと懇願した。それがあまりにも熱心だったので、遂に覚馬の世話を許されたとある。
この本の主役は覚馬なので、時栄についてこれほど筆を費やす必要は認めがたい。時栄の献身的な助力があったからこそ、目の不自由な覚馬でも立派な仕事ができたといいたいのであろうか。そのことは前の文章に続いて、
とあり、覚馬が牢獄で執筆活動をしていたことも記されている。「隆盛に因て弁解する所あり」というのは、『建白書』の始めの方にある「時勢之儀に付拙見申上候書付」の中に、
云々とあることを指しているのかもしれない。また「国家有益の条件を案出し、人をして代書せしめ、之を献言せし」こそは、『建白書(管見)』のことではないだろうか。囚われていた覚馬が『管見』をまとめられたのも、時栄の助力あってのことだといっているように思えてならない。
なお『近世盲者鑑』には安任の自筆草稿本が三沢市先人記念館に所蔵されている。それを見ると、草稿本の段階では「時江」という名前が書き込まれていた。それが出版されたものでは抹消されている。あるいは明治19年2月に時栄は離縁になっているので、出版に際して急遽削除されたのかもしれない。いずれにしても『近世盲者鑑』には資料的価値がありそうだ。