🗓 2021年05月15日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

芭蕉の『奥の細道』は有名で、教科書などにもよく採用されています。そのため事実が書かれていると信じている人も少なくないようです。でもこれは文学作品ですから、当然虚構も含まれています。そのことは、同伴した門人の河合曽良が書いた旅日記(奥の細道随行日記)と比較すればすぐにわかります。
 それだけではありません。俳句や和歌・漢詩は推敲するのが当たり前です。本人が改めるだけではありません。後人の手もしばしば入ります。芭蕉など、門人たちに自詠の句の是非を議論させることを、教育の一環としていました。だからこそ推敲の過程を辿る面白さがあるのです。
 さて掲載した句ですが、曽良の旅日記によると、元禄2年(1689年)5月28日に大石田(山形県)に到着し、29、30日とそこに滞在している間に句会を催しています。その句会の発句として芭蕉は、

五月雨を集めて涼し最上川

と詠じました。みなさんの知っている句と少し違いますね。

一般に知られている句は、「涼し」が「早し」になっています。ですがこれは間違いではありません。芭蕉は最初「涼し」と詠んだのです。その理由は簡単です。その年の東北・北陸は異常に暑く、芭蕉も暑さに閉口していたからです。だから最上川の川風を受けて、素直に「涼しい」と詠んだのでしょう。それもあって、今でも山形県大石田では「五月雨を集めて涼し最上川」の方がよく知られているとのことです。
 ところが『奥の細道』を見ると、

五月雨を集めて早し最上川

となっています。いつの間にか「涼し」が「早し」に推敲されているのです。これについては、発句を詠んだ後、芭蕉は6月3日に実際に最上川の川下りを体験したようです。

五月雨は現在の梅雨に相当します。大量に降り続いた雨によって、川は増水します。京都の保津川下りでさえスリル満点ですから、日本三大急流(他は富士川・球磨川)に数えられている最上川であれば、きっと恐怖の川下りだったでしょう。そのことは『奥の細道』にも、「水みなぎって、舟あやふし」と記されています。
 当初、夏の暑さと句会への配慮から、無難に「涼し」と詠じた芭蕉でしたが、実際に奔流となって流れる最上川の川下りを体験したことで、後に「早し」に推敲したのです。たった漢字一文字の改訂ですが、これだけで句の趣は大きく変わりました。穏やかな流れが激流に変貌したのです。そして最終的に芭蕉は、この形をよしとしたようです。
 ところで、歌枕ともいわれている「最上川」には、どんなイメージが付与されていたのでしょうか。代表的な古歌としては、

最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり(古今集東歌1092番)

があげられます(万葉集には見当たりません)。これによれば、川を上り下る稲舟のイメージが一番印象的だったことがわかります(稲舟はこれが初出)。これは最上川が舟運しゅううんに利用されていたからです。また「否」を導く同音の序詞という技法も認められます。

そのことは『奥の細道』にも、「茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いなぶねとは云ならし」とあるので、芭蕉も古今集歌を念頭に置いていたことがわかります。ただしそこに急流のイメージはありません。どうやら最上川を「早し」と詠んだのは、芭蕉が嚆矢だったようです(もちろん「涼し」も同様です)。
 もともと最上川を詠じた歌はそんなに多くありませんが、その中で兼好法師の詠んだ、

最上川はやくぞ増さる雨雲ののぼればくだる五月雨のころ(兼好法師家集)

は「五月雨」が読み込まれている点が共通しています。また季節は異なりますが、斎藤茂吉の、

最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも(白き山)

は、最上川の自然の猛威を詠じている点が特徴です。歌枕のイメージが徐々に広がっている(くずされている)のがわかりますね。いずれにしても芭蕉の句は、決して伝統的な詠みぶりではなかったのです。最上川に行ってみたくなりませんか。