🗓 2023年08月19日
吉海 直人
みなさん英米文学はお好きですか。英語が母国語でない日本人には、聖書、シェークスピア、マザー・グースの基礎教養が欠落しているので、それが英米文学を研究する人にとって最大の欠点となっているとのことです。それは研究に従事しない人にとっても同様でしょう。例えばルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』は、小さい頃に読んだ人が多いかと思います。でもそこに登場しているハンプティー・ダンプティー(卵)が、マザー・グースからの引用だということを知っている人は少ないのではないでしょうか。
もう一つ例をあげると、岩波少年文庫から出されている『ドリトル先生ものがたり』を読んでいて、カブトムシを放す際に「レディバード、レディバード、フライアウエィホーム」と口にしても、何の呪文かわかりませんよね。またいきなり「リンガリンガローズィーズだ」とあっても、その意味さえもわからないのではないでしょうか。もちろん知らなくても十分楽しめますが、もしそれがマザー・グースの引用だとわかったら、もっと深いもっと楽しい読み方ができるはずです。
それだけではありません。大人になって、アガサ・クリスティの推理小説や映画のファンになった人は少なくないでしょうが、果たしてマザー・グースの重要性にどれだけ気付いているのでしょうか。そういう人は是非、矢野文雄著『アガサ・クリスティはマザー・グースがお好き』を読んでみてください。そうすれば『そして誰もいなくなった』以下、タイトルそのものがマザー・グースに深く関連していること、そして推理のヒントというか核心にマザー・グースが大きく関わっていることがわかるはずです。
その他、『風と共に去りぬ』から『メリー・ポピンズ』・『ピータ・ラビット』・『赤毛のアン』・『秘密の花園』・『大草原の小さな家』に至るまで、実に多くの西洋文学にマザー・グースが当たり前のように引用されています。あなたはどれだけそれに気付いていますか。ひょっとすると翻訳者さえ、それと気付かずに訳している恐れがあります。
これは何も英米文学の翻訳だけの問題ではありません。みなさんが大好きな宮沢賢治の作品にしても、『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』などにマザー・グースが鏤められています。「『銀河鉄道の夜』の中のマザー・グース」という論文まで書かれているほどです。そのことに気付いていなければ、本当の宮沢賢治ファンとは言えないかもしれませんね。
日本におけるマザー・グースの広がりは、その程度では済みそうもありません。私が子供の頃に放映されていたNHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」で、「キ印キッド」の歌が繰り返し歌われていました。「バビロンまでは何センチ」というものですが、随分後になってそれが「ハウメニイマイルズツウバビロン」というマザー・グースの翻案だということを知りました。
また魔夜峰央のテレビアニメ「パタリロ」のエンディングに歌われた「クックロビン音頭」にしても、「フーキルドクックロビン」という有名なマザー・グースでした。しかもそれは、萩尾望都の『ポーの一族』中の「小鳥の巣」から引用したものとされています。大衆娯楽であるマンガの中にも、マザー・グースが密かに忍び込んでいたのです。どうです、みんなで近代文学の中に隠れているマザー・グースを探し出してみませんか。
ところで最初に日本に上陸したマザー・グースは、一体何だったと思いますか。それはどうやら「きらきら星」だったようです。英語の教科書『ウヰルソン氏第二リイドル直訳』(明治十四年)や讃美歌にも載せられているものですから、まさかマザー・グースだとは気付かないで歌われていたようです。それ以外にもマザーグースとは知らないで、「ABCの歌」や「メリーさんの羊」「ロンドン橋落ちた」「十人のインディアン」など、実にたくさんの曲が親しまれています。
なお日本ではマザー・グースという名称で知られていますが、西欧では「ナーサリーライムズ」の方が一般的かもしれません。またフランスのシャルル・ペローの童話集の英語版『マザー・グースの物語』は、「シンデレラ」や「赤ずきん」・「長靴をはいた猫」などを含むまったく別の作品ですので、くれぐれもお間違えないように。