🗓 2024年01月27日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

みなさん「しめ」のつく言葉はいくついえますか。「しめ切り」「鍋のしめ」「しめさば」「しめのうち」「しめかざり」「しめ縄」などがありますね。「しめ縄」というのは、縄を張ってそこが神や天皇などの領有地であることを示すものです。そこから転じて、宮中や神社の境内をいう場合もあります。漢字では「標」とか「注連」と書いています。また「七五三」と書いて「しめ」と読ませています。「標」は「しるし・標識」の意味で、この「しめ」の中が「しめのうち」、外側が「しめのほか」と称されています。
 「しめのうち」にはもう一つ別の意味もあります。それは正月用語としての特別な意味です。正月には年神様を迎えるために門松や注連縄を飾りますが、それを付けておく期間のことも「しめのうち」と称しています。それは「松のうち」とも重なります。では「しめのうち」あるいは「松のうち」は一体いつまでをいうのでしょうか。
 江戸時代以前は一月十五日までが「しめのうち」でした。現在でもそれを守っているところがあります。ところが江戸時代になって大きな変化が生じました。その原因は三代将軍徳川家光が四月二十日に亡くなったことです。その月命日の都合で、一月二十日に行われていた鏡開きが、強引に十一日に前倒しされてしまったのです。それに連動して「しめのうち」も十五日から七日に早められたというわけです。武家の世界ではその変更に従わざるをえませんでした。
 しかし江戸から遠い京都では江戸の変更に従わず、古くからの伝統を守って従来通り十五日までを「しめのうち」とし、鏡開きも二十日に行っています。この江戸と京都の対立が全国に影響を及ぼし、関東方式か関西方式かによって日にちにずれが生じてしまったのです。さて、あなたのところはどちらでやっていますか。
 ここでちょっと違和感を覚えたことがあります。同志社の人なら高祖新島襄が若い頃「七五三太」と呼ばれていたことくらい知っていますよね。かつてはそれを襄の幼名と称されていましたが、現在ではそれが本名であって、後に襄と改名したことがわかっています。その襄が何故「七五三太」とされたのかについて、誕生日(旧暦の一月十四日)が松の内(しめのうち)だったからという説がありました。
 しかしよく考えてみると、襄は江戸生まれですから松の内は七日までですよね。ということは、これは関西人の見方だったことになります。ということで「七五三太」は、女の子が四人続いて生まれた後にようやく男の子が生まれたので、祖父の新島弁治が「しめた!」と叫んだことから命名されたという説が妥当なようです。
 ところで一月十五日のことを「小正月」と呼んでいることはご存じですか。それ以前を「大正月」と称したのに対して、十五日を小正月と称したのは、どうやら日本の旧暦と深くかかわっているようです。古く中国から暦が伝来する前、視覚的に月の満ち欠けが暦の替わりをしていました(自然暦)。その場合、新月ではなく満月が基準になっていたとされています。だから十五日の満月こそは月(正月)の始まりだったというわけです。
 それが後に中国の暦が導入されたことで、視覚的に判断しにくい新月の一日から新年が始まるようになりました。そこで一日からを大正月、十五日を小正月としたというわけです。もっとも江戸以前は十五日までが「しめのうち」ですから、小正月は正月の飾りをはずす日でもありました。またこの日の朝に邪気を払い健康を願って小豆粥を食する習慣がありました。なんと『土佐日記』には、

十五日 今日の小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、いざるほどにぞ、今日二十日余り経ぬる。

(土佐日記承平四年(934年)日一月十五日条)

とあって、十五日なのに小豆粥を煮なかったことがわざわざ書かれています。ということは本来ならば十五日には小豆粥を煮て食べていたことになります。また『枕草子』にも小豆粥のことが、

十五日節供まゐりすゑ かゆの木ひきかくして家の御達(ごたち)女房などのうかがふを うたれじと用意してつねにうしろを心づかひしたるけしきもいとをかし。

(枕草子三段)

と記されています。あるいは鳥取県や島根県で小豆雑煮粥を食べるのは、この古いしきたりの名残なのかもしれません。

前述のように旧暦十五日は満月でした。満月のことは「望月」あるいは単に「望」とも称しています。その「望」が言語遊戯として「餅」に通じることから、小豆粥に「餅」が入れられるようになったとのことです。