🗓 2024年04月06日
吉海 直人
春に桜が咲くと、みなさんは花見に出かけますよね。たいていは一人ではなく、グループで行くようです。ただ桜を眺めるだけではなく、そこで弁当を食べたりお酒を飲んだりして騒ぎます。それは決して世界共通の行楽ではなく、日本独自の文化のようです。当然、かなり古くから花見は行われていました。
古典ではそれを「桜狩り」と称しています。それと対にされているのが秋の「紅葉狩り」ですね。では「桜狩り」と「紅葉狩り」はどちらが先に行われたのでしょうか。あくまで文献の初出で判断すると、「桜狩り」は『うつほ物語』吹上上巻で、
と歌われています。また『拾遺集』にも、
と詠まれていました(説話では藤原実方の歌としています)。もう一首、『伊勢大輔集Ⅰ』に、
とありますが、これは宮中に奈良の八重桜が届けられた際の歌なので、いわゆる「桜狩り」に行ったのではなさそうです。
それに対して「紅葉狩り」は平安時代の文献を探しても見つからず、ようやく鎌倉時代の『夫木和歌集』に、
とあるのが初出とされています。幸いこれは『壬二集』2527番の歌なので、藤原家隆の作であることがわかりました。しかもこれは『拾遺集』の「桜狩り」を本歌取りして「紅葉狩り」にしているようです。ですから「桜狩り」が先行していて、「紅葉狩り」は遅れて登場していることになります。というより「紅葉狩り」という言葉は、謡曲「紅葉狩り」(観世信光作)によって一般化したともいえそうです。
だからといって、平安時代に「紅葉」を見物していなかったかというと、そんなことはありません。「紅葉狩り」ならぬ「紅葉見」なら、『源氏物語』椎本巻に、
と出ています。また『拾遺集』にも、
とあるし、『小大君集』にも、
と詠まれているので、「紅葉見」が一般的な言い方だったことがわかります。
では「桜見」はどうでしょうか。残念ながら「桜見」は室町時代以降の用例しか見つかりませんでした。念のために「花見」を調べてみると、これは平松家本『平家物語』「一谷合戦事」に、
とありました。ただしやはり平安時代の用例は見当たりません。
実は宮廷行事としての花見は、「花宴」と称されていました。そのことは『類聚国史』弘仁三年(812年)条に、
と出ており、これが「花宴」の始まりとされています。また『うつほ物語』国譲下巻にも、
とあります。『うつほ物語』には、「桜狩り」と「花宴」の両方の例が認められることになります。
なお『日本国語大辞典第二版』の「花見」の語誌には、
云々と記されていました。
ところで、みなさんは「桜狩り」・「紅葉狩り」に「狩り」が付いていることについてどう思われますか。これを字義通りに取ると、「きのこ狩り」(茸狩り)・「みかん狩り」や「潮干狩り」などと同じ仲間になります。一般には「狩」ではなく、「~のもとへ」という意味を有する「がり」(接尾語)と考えられています。わざわざ桜や紅葉を見物するために、遠くまで出かけることをいいます。
もっとも平安時代の交野は皇室の領有地ですから、「鷹狩り」の場所でありながら、桜の名所でもありました。『伊勢物語』八十二段では、交野の狩りの中で同時に桜の花見が行なわれています。ここに「桜狩り」はありませんが、藤原俊成は『新古今集』に、
と本歌取り歌を詠んでいます(「交野」は見ることが「難い」と掛詞)。これに家隆の「紅葉狩り」が加わるわけですから、交野こそは「鷹狩り」・「桜狩り」・「紅葉狩り」が総合的に行われた特別の場所(聖地)だったといえます。だからこそ「落花の雪に踏み迷ふ、交野の春の桜狩」『太平記巻二』(74頁)という名文も生まれたのでしょう。あるいは「鷹狩り」の「狩り」と「桜狩り」「紅葉狩り」の「がり」は掛詞として機能しているのかもしれません。